百七十六、石原莞爾と劇画「ジパング」
(その二、毛沢東と石原莞爾の会談)
平成二十三年
六月二十二日(水)「毛沢東の描き方」
「ジパング」では現役に復活した石原莞爾が毛沢東と会談する場面がある。しかし毛沢東の描き方が異常に虚無主義である。毛沢東の顔付きも悪い。もし毛沢東と石原が会談するとすれば「欧米列強からアジアを解放し平和のために全力を尽くしませう」と互いに力強く握手すべきだ。しかし「ジパング」では毛沢東が壁側を向いて寝そべり石原が垂らした釣竿を毛沢東が引きちぎる。二人で会談ののちにイギリスのジャーナリストに互ひに視線を合わせない写真を撮らせ世界に発表する。その異常な描き方は、米軍の空母「ワスプ」に乗る司令官の温厚な顔と責任感ある行動とは大違ひである。
六月二十三日(木)「東亜連盟と蒋介石」
東亜連盟は蒋介石と関係が強いから、会談があるとすれば蒋介石とであろう。
しかし石原は日華事変を停戦させ国共内戦も終結させることを当然考へるはずだ。毛沢東との会談は有り得ない話ではない。
東亜連盟と蒋介石の関係がどれだけ強いかは、終戦直後に東亜連盟の辻政信がイギリス軍が進駐してきたバンコクからラオス、ベトナムを経て中国まで蒋介石の側近の戴笠の協力で逃げることができたことでも証明される。戴笠は蒋介石の寝室に自由に入れる唯一の側近で、戴笠の名を出すだけで中国人は辻に好意的だつたといふ。
辻政信のことを昭和四十年ころ以降の書籍は極めて悪く書いてゐる。だから私もそれを信じてゐたが昨年石原莞爾を調べると石原は辻を評価してゐる。石原が誉めるのだから悪人ではない。辻も戦時中に東條に睨まれ閑職に追ひやられた。
六月二十四日(金)「辻政信とジパング」
辻政信は中国に入国した。戴笠が飛行機で重慶に向つたが悪天候で墜落し死亡した。辻は蒋介石を批判もしてゐる。辻の著書で戦後にベストセラーとなつた「潜航3千里」には次のように書かれてゐる。
・重慶との間に和平をはかつた繆斌氏は、確実に戴笠と連絡を取っていたのであり、まさか殺されることはなかろうと信じていた。
(中略)彼が法廷で東亜連盟を説き、また東久邇宮様を通じて和平工作をやった内幕を戴笠の電報やら手紙を見せて堂々と説明した。
・女ながら男も及ばぬ態度は陳璧君である。法廷で堂々と、「日本と提携したことは孫文の大亜州主義によるものである。共産党はソ連の前衛であり、重慶は米国の走狗ではないか?
・南京政府を寛容し得ないものが中京を抱容し得る道理はない。
一方で「ジパング」は辻政信を極悪人に仕立てた。辻のことを「陸軍のどぶねずみ」と呼び狂信的な軍国主義の固まりのように描いてゐる。これは「ジパング」だけではない。戦後日本の偏向である。
六月二十五日(土)「戦後日本の偏向」
ここで戦後日本の偏向を明らかにしておこう。まず帝国主義どうしの争ひを一方だけが悪いとした。これは欧米列強の植民地支配を正当化することになる。そもそもアメリカは国全体が植民地である。
第一次世界大戦の後に不戦条約ができるが欧米の植民地はそのままであつた。つまり植民地固定化の意図があつた。
民主主義は手段であり目的ではない。民主主義を絶対化すると欧米の植民地支配は正統化されることになる。欧米は民主主義でしかも植民地を支配したからである。
独裁を倒すときの民主主義は正しい。しかしすぐに多数派工作や権力争ひなどが起きる。つまり民主主義は瞬時に堕落する。その堕落した民主主義をありがたがるのだから日本の自称進歩主義者にも困つたものである。
このような日本で、大亜州主義とも言ふべき孫文や石原や辻が無視されたり悪く書かれるようになつた。
六月二十六日(日)「戦前の軍国主義の本質は西洋猿真似と官僚主義である」
戦前の日本の軍国主義の本質は西洋猿真似と官僚主義である。辻政信の著書には、戦闘が終つたあと兵士たちに暴行、不服従が蔓延するので軍紀を正したことが書かれてゐる。あるいは戦闘の最中に指揮官が民家に火を点けさせようとするので理由を聞いたところ中央からの命令だと言ふのでそれを止めさせた記述もある。
匪賊の投降者は顔に烙印を押すことになつてゐたが辻が違ふ方法を司令部で述べたところ東條英機が規則だと反対したので激論になり、辻は参謀を辞任させてもらふと引き上げ、そのときは仲介する人がゐて仲直りしたことも書かれてゐる。
石原や辻が戦後に悪く書かれる原因は、官僚主義に反抗したため当時の上官や先輩から悪く言はれ、昭和四十年あたりから急増した拝米主義者がそれを引用したためではないか。
ここで官僚主義とは
(1)全体のことを考へない
(2)人道主義の欠如
(3)少しずつ堕落
(4)既得権の死守
である。
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