千七百三十七(歌) さくら草公園と荒川彩湖公園
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
五月四日(水)
本日、さくら草を見に行こうと思ひたった。さくら草は四月下旬までが見ごろなので、四日過ぎても大丈夫だらう。ところで明日は、西浦和で午後一時半に用事がある。明日お昼を早く食べて見に行ったあと、西浦和に行くことにした。

五月五日(木)
お昼を十時半に食べた。そして出掛けた。さくら草公園は秋ヶ瀬公園とは別だと、初めて知った。かつては秋ヶ瀬橋の南側に下り坂があり、秋ヶ瀬公園に行けたが、今は歩行者専用だ。北側の下り坂は秋ヶ瀬橋と平行だから遠回りではない。まづさくら草自生地西側を見た。ここは面積がそれほど広くはなく、さくら草の花は目視できなかった。
西側とは飛び地の大きい自生地を見た。ここは歩行路が中に何本もあり、これを歩いた。しかしここでも、さくら草の花は発見できなかった。周囲の草がかなり高くなり、それで見えないのかも知れない。
特別天然記念物なので、周囲の草を刈ることはできない。と云ふか、説明版を読むと周囲の草が伸びるから暑さに弱いさくら草が守られ、しかも雑草が生えないらしい。周囲の草は貴重だ。
大きい自生地は南側下り坂の脇だ。この坂は五十年前から自転車で走ったが、こんな近くに自生地があるとは五十年間知らなかった。当時も立ち入り禁止の柵と綱はあった。南側下り坂を自動車通行禁止にしたのは当然だ。
さくら草二箇所に分かれ自生地はそばに道路と駐車場あり

小林一茶は
我が国は草も桜を咲きにけり

とさくら草を詠んだ。一茶が亡くなったのは文政10(1828)年。ペリーの黒船が来たのは嘉永6(1853)年だから、二十五年前。黒船が来る前に「我が国」の概念があった。一般には藩意識しかなかったと云はれるが、それは武士の感覚だった。
黒船の来る前にても我が国と外の国とを一茶は分ける
雀の子そこのけすぐに黒船が来る野蛮人ども世界侵略
日泰華除くアジアの全域が野蛮人等に国奪はれる
我が国もこの争ひに巻き込まれつひに迎へた先の敗戦

日本が失敗したのは台湾割譲と日韓併合だ。国奪ふ野蛮人等の「等」に日本が入ってしまった。
南側下り坂を登ったのち、荒川彩湖公園に入った。と云ふか鴨川を水門で渡ったあと直進したら彩湖の上側堤に到着した。湖の西側から中間の橋を渡り、東側から戻って、西浦和に行った。
彩湖とは荒川の水下流での氾濫防ぐ遊水地 底が深くて地下水とさくら草にも影響があると心配 本日は中で鴨川隔てれば影響なしに見えれども 渇水時には荒川の水を根こそぎ搾り取る池

(反歌) 荒川はさかな水草珪藻と岸は多くの動植物が(終)

追記五月八日(日)
西浦和へ戻る途中に、田圃が二区画ある。水源は電力によるポンプだ。普通は井戸だと思ふが、昔この辺り一面が田圃だったときに井戸とは思へない。或いは昔の農業用水が暗渠や配管で田圃の下まで来て、それをポンプで揚水するのかも知れない。

(見沼代用水と地元の話題、三十一) (見沼代用水と地元の話題、三十三)

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