千七百十五(和語の歌)美しくない歌が多い理由
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
四月三日(日)
和歌へ本格進出して三年。子規、左千夫、節、赤彦、水穂、茂吉などの歌集を読み、気づいたことがある。それは、歌に推敲を重ねると美しくなる。だから作ったばかりの歌は、そのほとんどが美しくない。
子規や左千夫は、美しい歌があるものの、さうではない歌のほうが多い。節、赤彦、水穂、茂吉は美しい歌の比率が更に少ないが事情は同じだ。作ったばかりの歌は美しくないものが多いから、さうぃふ歌を作ることに抵抗が無い。美しくない歌が多い理由が、やっと判った。
やまと歌 五つ七つに合はせるがまづ初めにて その次に文を直して美しさ増す
(反歌)
やまと歌五つ七つに次ぐものが歌詠み人の徴(しるし)を示す
四月四日(月)
表現を美しくするには、万葉調、枕詞、二語を組み合はせて美しい語を作る、美しい内容(特に風景)を詠む、力強く詠む、和語のみを使ふ、歌を連続させて流れを作る、散文に組み込む、などがある。
子規や左千夫がときどき万葉調を使ったのは、美しく詠むためであり、擬古調を目指した訳ではない。
四月五日(火)
破調はよくない。だが四文字の字足らずは万葉集などにもあるから、それほど悪くはない。悪いのは字余りだ。「あ、い、う、お」の字余りが許される理由として、前に歌会かと想像したが、日本語の構造で母音のみのときは軽く発音する。しかし「え」は、はっきり発音する。これが理由だと思ふ。
破調の作品は、歌ではなく詩だ。短詩と云ふ分野を分けて、短歌は字数の合ったものだけにすべきだ。ここで、破調でもそれに見合ふ効果があるなら歌だ。破調が現代は許されるとして作ったものは短詩だ。
破調が悪い理由は、調べが乱れる。昔は「あ、い、う、お」以外の字余りが認められなかったからではない。昔と異なると駄目なら、口語で歌を詠むのは駄目になってしまふ(万葉集は当時の口語だと思ふ、古今集以後)。だから今の時代は「あ、い、う、お」でも駄目だとするのが持論だ。現代人と古代人は発音が異なった。
やまと歌五つ七つを外れると調べが乱れ美しくない(終)
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