千六百九十六(和語の歌) 節の佳き歌を選ぶ(閲覽注意、歌論濃厚)
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
ニ月二十八日(月)
前に現代日本文学全集11「正岡子規 伊藤左千夫 永塚節」を読んだときに、永塚節の歌を少し読んだ。写生に忠実との感想を持った。
今回日本近代文学大系 第44巻「伊藤左千夫・長塚節・島木赤彦集」で左千夫の歌を調べ、次いで島木赤彦へ行く予定だった。その前に長塚節を読むと発病した時の歌で、まもなく読むのを止めた。
しかしそこでめげずに「病中雑詠 其二」「鍼の如く 其一」へ進むと、美しい歌が続く。長塚節の年譜を読むと、十七歳で脳精神衰弱になり二十一歳まで療養や入院を繰り返す。二十二歳で子規の歌会に出席するやうになり、左千夫らと知り合ふ。三十三歳で咽頭結核になり、四年後に病死。子規の一生と重なる。
「鍼の如く 其一」には
唐黍(たうきび)の花の梢にひとつづつ蜻蛉(あきつ)をとめて夕さりにけり

「ひとつづつ」「蜻蛉(あきつ)をとめて」は梢を主人公とすることで表現が美しく、「夕さりにけり」を含めて景色も美しい。
うなかぶし独し来ればまなかひに我が足袋白き冬の月かも

一首にすべての情報が揃ふ。「うなかぶし」「まなかひ」と古語で美しいのは子規、左千夫にも見られ、三人は同質だとわかる。決して三人の中で、左千夫が突出してはゐない。
球磨川の浅瀬をのぼる藁船は燭奴(つけぎ)の如き帆をみなあげて

「浅瀬をのぼる」「帆をみなあげて」が美しい。
松が枝にるりが竊(ひそか)に来て鳴くと庭しめやかに春雨はふり

「ひそか」の選語が美しい。次いで「松が枝」が美しく、三番目に「来て鳴くと」の「と」による時系列が美しい。
草臥(くたびれ)を母と語れば肩に乗る子猫もおもき春の宵かも

俳句的な美しさは多くの人が語ることだらう。「草臥を母と語れば」「肩に乗る子猫もおもき」は表現が美しい。
秋の日は枝々洩りて牛草のまばらまばらは土のへに射す

「枝々洩りて」「まばらまばらは」「土のへに射す」の単語選択が美しい。
あをぎりの幹の青きに涙なすしづくながれて春さめぞふる

しづくを涙の如く感じた内容で、発病前。

三月一日(火)
ここから先は病気で婚約を解消した女性から来た手紙への歌と、それに続く各種の歌となる。
朝ごとに一つ二つと減り行くになにが残らむ矢ぐるまの花

「朝ごとに一つ二つと」「なにが残らむ」が美しい。
貧しき人々の住む家なれば(以下略)

これは詞書である。「貧しき人々」を今の感覚で「けしからぬ」と批判してはいけない。サトウイチローの「夢淡き東京」の四番にも「悩み忘れんと貧しき人は唄ひ」とある。
あかしやの花さく陰の草むしろねなむと思ふ疲れごころに

「花さく陰の草むしろ」が美しい。「疲れごころに」も美しい。
ここまで読んだあと「「病中雑詠 其一」に戻ると、節が結核で余命一年と聞いたときの衝撃が伝はる。最初に読んだときは、突然冒頭に病気の歌だったので驚いた。
子規を継ぐ一人節は若くして亡くなるにより今は知られず


三月三日(木)
「鍼の如く 其二」は病に絶望し、工夫する余裕がなくなったか。「鍼の如く 其三」も同じだが、「鍼の如く 其四」で多少復活する。
快くめざめて聴けと鳴く蛙ねられぬ夜のあけにのみきく

「快くめざめて聴け」「ねられぬ夜のあけにのみ」が美しい。
松の木の疎らこぼるる暑き日に草みな堅く秋づきにけり

選者は土屋文明の説に従ひ、木の皮がこぼれ落ちたと見た。私は、木から洩れる日光または暑気と見た。
子規を継ぐ若く病で逝く人は調べも継いで悲しみがある
(終)

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