千六百九十七(歌) 松本電鉄、山田口と山田バス停
壬寅(西洋野蛮歴2022)年
ニ月二十八日(月)
昭和四十年代に、松本電鉄(現、アルピコ交通)のバスで浅間線(松本駅-浅間温泉)に乗ると、終点手前で道路を左折し百メートルくらい行ったところに浅間温泉のバス停と営業所があった。かつて路面電車の駅舎だった建物をそのまま使った。
手前を左折せず、温泉中心街の緩い上り坂の途中に「山田口」と云ふバス停があった。ウェストンホテル(昭和三十九1964年開業、平成十八2006年休業)の前だから、繁華街の範囲内だ。その先はバスが一台通れるくらいの山道で、そこを少し上がると「山田」と云ふバス停もあった。この山道は、浅間温泉から美鈴湖へ行くバスも通るが、浅間温泉に行くバスの一部(一時間に一本くらいか)が上がって来た。
ウェストン浅間温泉第一の大きなホテル今は閉館
山田口浅間温泉終点の更に上なるかつてバス停

あのバス停に美鈴湖行きは止まらなかったやうな気がする。バス停の時刻表に、美鈴湖行きは載らなかった。先日母に「山田口」に止まるのはどこ行きか聞いたところ、九十歳なので記憶にないやうだ。暫くして美鈴湖に行くバスではないかと云ふ。
インターネットで調べたところ、つひに長年の謎が解けた。塩倉山田線で「松本バスターミナル - 信州大学前 - 法務局前 - 神沢 - 山田口 - 塩倉・山田公民館前」とある。
インターネットで調べる前に塩倉・山田公民館前の終点が分からなかったので、母に「上浅間(かみあさま)だったかな」と聞くと、ほとんど記憶がないから「さうだったかもしれない」と云ふ。しかし「うえあさまだよ」と云ふ。これは正しい。路面電車の浅間線と、廃止後のバス新浅間線に「下浅間」「中浅間」の停留所があり、「したあさま」「なかあさま」だった。
ここで山田の地名は、埼玉大学教育学部谷謙二さん(人文地理学研究室)のホームページにある昭和四十九年の地図によると、バス道路が美鈴湖へ分岐する辺りから上側の地名だ。分岐する反対側は浅間温泉終点辺りまで上浅間、その下(西側)は女鳥羽川まで中浅間、その南側は野球場の辺りまで下浅間だ。
同じく谷さんの平成十三年の地図だと、下浅間が浅間温泉一丁目、中浅間が二丁目、上浅間が三丁目だ。山田の辺りも「浅間温泉」とある。

三月一日(火)
昨日書いた内容だけなら、一見落着で終はったのに、昭和六年の地図を見ると下浅間の停留所が「まさあもし」とある。右から読むから「しもあさま」だ。後に「したあさま」と読むやうになったのだらうか。
明治四十三年の地図に、まだ電車はない。昭和三年の地図に電車が現れ、街並みは中浅間の南側から浅間温泉の南側と東側で、街並みは明治四十三年と変はらない。
電車が開通して停留所は「したあさま」と名乗り、しかし歴史が短いから地図は「しもあさま」と書いた。後に街並みが広がり、停留所名と同じ読み方の「下浅間」「中浅間」そして停留所にはないが「上浅間」が出来たのが、正解ではないだらうか。
浅間線の思ひ出は、日よけが木製でブラインドを斜めに開いた形だった。風がよく入る。あと、自動車学校前に車庫があった。浅間温泉終点は、切符売り場で国鉄の連絡切符も売ってゐた。小学生低学年だったので、これしか覚えてゐない。
福島と松山そして元浅間温泉地には電車が走る元は今無し

かつての電車に遅れること数十年、バス路線が少なくなった。Wikiwandに載った記事によると
営業所
利用客の減少に伴う路線網の縮小と共に、拠点の統廃合が断続的に行われている。
1984年(昭和59年)時点
松本、白馬、大町、池田、麻績(おみ)、明科、豊科、浅間、塩尻、辰野、新島々(11拠点)
1991年(平成3年)時点
松本、白馬、大町、池田、明科、浅間、塩尻、新島々(8拠点)
1992年(平成4年)時点
松本、白馬、大町、明科、浅間、塩尻、新島々(7拠点)
1997年(平成9年)時点
松本、白馬、大町、浅間、塩尻、新島々(6拠点)
1999年(平成11年)時点
松本、白馬、大町、浅間、新島々(5拠点)
2000年代前半時点
松本、白馬、大町、新島々(4拠点)
2009年(平成21年)12月16日
白馬営業所と大町営業所を川中島バスに移管。これにより、現在は松本、新島々の2営業所のみである。 また、冬季は路線運休のため休業する上高地バスターミナル内の事務所には車両・乗務員の配置はないが、「上高地営業所」を名乗る。

今回この記事に注目したのは、かつての浅間温泉駅は、バスになってからも浅間営業所として長いこと存在した。その形態は、上高地営業所と同じだったのだらう。浅間は年中無休だが。

三月二日(水)
松本電鉄は諏訪自動車、川中島自動車とともにアルピコグループと名乗ったが、私的整理を経て三社が合併しアルピコ交通となった。その途端、10分おきだった浅間線が一時間に一本、15分おきだった新浅間線は1日2.5往復に激減した。浅間橋より下側では、浅間線と新浅間線を循環させたため、本数は減らなかった。つまり浅間橋から上側の浅間温泉へ入るバスが激減した。
その理由は、三代に亘って社長だった滝沢一族が浅間に住むためだと思ったが、今回新たに、浅間温泉の繁華街はバス二台がすれ違ふには狭いことに気づいた。その前に、浅間から美鈴湖への道路がバスと自家用車がすれ違ふに狭いことに気づいた。
かつて浅間から美鈴湖は、歩いても途中で自家用車とすれ違はないくらいのんびりしてゐた。今は、山田の住宅にそれぞれ車がある。
滝沢時代に浅間線と新浅間線が多かったことは、滝沢さんが浅間に住むことではなく、路面電車の終点が浅間だった。バスになってからもそれは続いて、滝沢時代の終了とともに減便された。(終)

----------------------ここから(兼、「良寛と會津八一、和歌論」五十五の二)へ-----------------------
追記三月四日(金)
「山田」バス停(今は廃止)近くの細い山道を上がった丘に、左千夫の歌碑がある。
秋風の浅間のやどり朝つゆにあめのと開く乗鞍の山

左千夫が明治42年8月浅間温泉に来た時の作で、西石川旅館の蔵する短冊を拡大して、昭和15年に建てられた。

「良寛と會津八一、和歌論」(五十五の一)へ 「良寛と會津八一、和歌論」(五十六)へ

メニューへ戻る 歌(二百三十六)へ 歌(二百三十八)へ