千五百九十(和語の歌) 今回は東郷豊治さんの三冊(「良寛全集 下巻」)
辛丑(2021)
八月八日(日)
東郷豊治「良寛全集 下巻」は短歌、旋頭歌、長歌、俳句、書簡の順に続く。まづ短歌では
229月よみの光を待ちて帰りませ山路は栗の毬のおつれば
  *定珍に贈ったもの。明治以降の諸本にはすべて「・・・いがの多きに」となっている。

「毬(いが)のおつれば」は「いがの多きに」より新鮮に感じた。これは「いがの多きに」を読み慣れたためだった。
このあと酒に関はる歌が幾つか点在する。この当時から曹洞宗の僧は飲酒をしたから、酒の歌があることを以って良寛が還俗しただとか、非僧非俗だと考へてはいけない。良寛は亡くなるまで僧だった。
瞑想に、心を静めるものと活性化させるものがあり、人により、状態により、どちらが適するか異なる。同じやうに、飲酒には心を静める作用と、活性化させる作用があり、これも人により、状態により、誰と飲むかにより異なる。
良寛の飲酒は、心を静めるものだったのだらう。良寛ほど心の活性化した人が、更に活性化したら大変なことになる。
274もたらしの園生の木の実めづらしみみ仏にまづ奉る
(前略)文政十二年の作であることが判る。

良寛の亡くなる二年前の作である。良寛が最後まで仏道の僧だったことが判る。江戸時代までは、還俗せず僧が信徒に戻ることはできなかった。み仏にまづ奉るには、信徒ではないのだから僧である。
369ほとゞぎすいたくな鳴きそさらでだに草の枕は淋しきものを

これに類する歌はたくさんあり、そのなかで文学性の高いものを遊び心で選んだ。文学性が高いかどうかは重要ではない。良寛の清貧と静かな雰囲気が、良寛の歌の愛好者を多く生む秘訣であらう。だからどの歌も優劣は付けられない。私の遊び心で選んだ。
良寛は 清く貧しく それ故に 名が少しづつ 広まりて 筆と漢詩(からうた) 和歌(やまとうた) これらは名より 更に広まる

(反歌) 良寛は 広まる後も 驕らずに 生き方変へず 今に繋がる 

八月九日(月)
逆に文学性は低いが、人生訓として大切な歌を見つけた。
658いにしへは心のまゞに従へど今は心よ我れに従へ

文学性が低いは、良寛を批判したものではない。文学性が低くても魅力のある歌に感心した。
919はら〱(二文字分の同じ)と降るは木の葉のしぐれにて雨をけさ聞く山里の庵

これは文学性だが、根底に清貧と静けさがある。
1105わが待ちし(以下略)
1114わが待ちし(以下略)
1115待たれにし(以下略)
1117わが待ちし(以下略)

良寛が秋を待ちに待ったことが伝はる。前に、筆詩歌の三角形を考へたが、筆詩歌を併せて風流と名付けると、六道輪廻からの解脱、清貧、風流の三角形も考へることができる。
漢詩を暫く読んだあとで歌に戻ると、歌が新鮮で優れたものに感じた。

八月十日(火)
1278から旋頭歌になる。
1306岩室の 田中に立てる 一つ松の木 けさ見れば 時雨のあめに 濡れつゝ立てり
1307岩室の 野なかに立てる 一つ松の木 けふ見れば しぐれの雨に 濡れつゝ立てり
1308一つ松 人にありせば 笠貸さましを 蓑着せましを 一つ松あはれ

三つの一つ松の旋頭歌のあと
*「古事記に類歌あり。(中略)元より剽竊模擬に心なければ、見る人その同じきを言はず。(以下略)」(林本。付箋)
因みに、古事記の類歌は(中略)「尾張に、直(ただ)に向へる、尾津の埼なる、一つ松、吾兄を、一つ松、人にありせば、太刀佩けましを、衣着せましを、一つ松、吾兄を」

1314から長歌に入る。これも漢詩を読んだ後なので新鮮だ。歌の専門家ではなく、漢詩を専門とする人の歌は、良寛の嫌ひな歌人の歌と異なり、新鮮だ。
1327この秋は 帰り来なむと
(中略)
古里(ふるさと)の 荒れたる宿に(以下略)
古里(ふるさと)は、古い里であり、故郷より範囲がはるかに小さい。その次の1328「求古の病苦をよむ」にも古里(ふるさと)が出てくる。こちらも古い里だらう。故郷でも意味は通るが、一つ前の歌と別の意味とは考へられない。1330「古りにし里に」で、やはり古い里だと判る。
1328に「病気(あしきけ)」、1329に「悪しき病(やま)ふに」があり、字数合はせ、和語のみ用ゐることに苦労の跡がある。(終)

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