千五百七十五(和語の歌) 1.破調はいけない、2.和語のみ使用が一番よい
辛丑(2021)
五月五日(水)破調
私は、破調(字余りや字足らず)の歌をほとんど作らない。古今集などに字余りがあるのは理由がある。だから現代人が真似をしてはいけない。本居宣長は、字余りの句が「あ、い、う、お」のどれかを含むことを発見した。当時の発音だと、或いは歌会で読む発音だと、「あ、い、う、お」は一文字にならなかった。
坂野信彦さんの「七五調の謎をとく」によると、樋口一葉は明治十七年から二十八年までの全期間で、字余り句の比率は1.5%。「あいうお」を含む句を除くと0%。これが正解である。
字余りは 今の世にても 見苦しい 歌を詠むとき 気を廻し 心を廻し 消しては作る

(反歌) 字余りは 世の乱れ見て まづ心 次に言葉が 世の中映す

五月六日(木)三四調と四三調
坂野さんは、三四調と四三調についても書いた。私が紹介したいのは破調だが、せっかく載るので紹介すると、歌人で国文学者の井上通泰によると、結びの句の七は三四でなくてはいけない、万葉には四三もあるが、調べに重きを置いた古今からは三四だと云ふ。
斎藤茂吉はアララギ派が万葉集を重視する立場から、これに反対し万葉集の四三の作品を列挙した。坂野さんは
茂吉の論には(中略)右にあげたような四三調の結句をみて、(中略)音律上問題が生じるなどとはだれも思わないでしょう。

その一方で
通泰もまた、あたりまえのことを主張していたのです。

それは曲節をともなふ朗詠だからだと云ふ。注目すべきは
『樋口一葉全集』に収められた各期の「第一次歌集」をみるかぎり、非"公認"の四三調結句はひとつもみあたりません。

"公認"とは、「~ものを」と「~なくに」で、古今集で積極的に認められたが、時代を経ると消極的公認に変はった。
たけくらべ にごりえなどを 書いた女(ひと) 心正しく 歌も正しく


五月六日(木)その二文か内容か
歌の目的は、文だらうか、それとも内容だらうか。正解は、両方だ。優れた文でも内容が悪ければ駄目だし、すぐれた内容でも文が悪ければ駄目だ。
しかし、どちらを優先させるかはある。私は文だ。まづ破調とならないやうに作るには、単語を変へたり、順番を入れ替へたり、苦労する。出来た歌を読むと、苦労の甲斐があったと、嬉しく思ふこともある。或いは改良の余地があると思ふこともある。
日にちを改めて推敲すれば、大きく改良されることがある。これも喜びだ。それとは別に最近、和語を用ゐた歌を始めた。固有名詞は漢語やカタカナ語を含めた準和語もある。鉄のやうな語感に影響しないものを用ゐる新和語も試した。
和語や準和語、新和語は、単語を変へることを破調の十倍は努力しなくてはいけない。四十二年間を云ふのに「干支の支(と)を 三つ回して 午の年 子まで六つ」とした。四十八年間を表すのに「子(ね)から亥(い)までを 四(よ)廻り」とした。言葉遊びの努力に気付いてくれる人がゐれは幸ひだ。
歌作り 和語(やまとことば)に 限らうと 心に決めて 始めれば 耳当たりよく 穏やかな 歌を作れて 心安らぐ

(反歌) 穏やかな 歌と心と 世の中を 築くために 皆で作らう
世の中を良くしようと云ふ思ひとともに歌を作れば、そこには内容を含む。(終)

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