千五百四十八(和歌) 馬場あき子編「韻律から短歌の本質を問う」読書記
辛丑(2021)
四月二日(金)
和歌の本を読むと、失望することが多い。特に添削の本は、図書館で良いと思っても、家で読むと失望する。その理由は、有名人の歌集でも気に入った和歌は少ない。ましてや、普通の歌人が初心者の作品を添削したものだから、時間を掛けて読むほどのものではない。
やはり読むべきは、歴史的名作なのか、と思ってしまふ。そのやうな中で「短歌と日本人」シリーズ3の「韻律から短歌の本質を問う」は優れた書籍だ。まづ座談会1で
関東の言葉というのは抑揚に乏しいんですね
関東と関西は、アクセントの位置が規則的に違ふ、と思ってきたがさうではなく、関東は抑揚に乏しい。これは貴重な情報だ。
四月三日(土)
座談会2では、比較文学の川本晧嗣さんの
和歌の韻律について(中略)二音一拍四拍子によって支えられているというのが出発点です。
そして
世界中の韻律をずっと見てますと、(中略)音節の数だけでいくというものは、どこにもないようです。(中略)リズムを感じ取るためには(中略)強いとか長いとかの、ほかと違う何かの目印(中略)を心の中でつける必要があって、実は七五調もそうなのです。
具体的に「世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまの小舟の綱手かなしも」について強弱を当てはめると
”1 | 2 | ’3 | 4 |
よの | なか | は● | ●● |
つね | にも | がも | な● |
なぎ | さ● | こぐ | ●● |
あま | の● | おぶ | ねの |
つな | で● | かな | しも |
”は強、’は弱、●は休止だ。更に
土井光知の観察によれば、
のように和歌末尾の七音句の四音目に休止を置くのは、ふつう三・四調と言われるもので、『古今集』に多い終止的なリズムだと思います。
(中略)
それに対し万葉調は
のように最後に休止を置くので、リズムの上からは連続的な、まだ先に続くという、ちょっと不安定な感じを与えると言います。
それとは別の話題で
実は私は『万葉』の五七調は、七五調のように四拍子だけでなくて、三拍子と四拍子の混合拍子だと思いますので(以下略)
次に『新古今』では
のように、第六音のところに休止が来るものです。この五・二調は、感傷的な、あるいは不安定な情調を持つ。
これは貴重な情報だ。
四月四日(日)
昨日に続き座談会で、馬場あき子さんが
長歌は(中略)最初の五音はまとめて読んだはずだと思うんです。たとえば「そらみつ」は、「そらーみつ」じゃなくて、「そらみつ」と。
同じく馬場さんが
歌人が七五調時代、あるいは今様時代に短歌に固執したのは、やっぱり最初の五音にすごい思い入りがあったからで(以下略)
その後
俳句が、発句の五七五が独立した時に俳人は五音に切れ字を入れろとか、尻尾のほうに切れ字を入れろとか(中略)、五音をいろいろやることを考えるでしょう。それと同時に、歌人はいつのころからか、「七七に生命がある」と言い出すじゃないですか。あれは俳句の五七五の独立に影響されているんじゃないかという気持ちが、ちょっとあるのね。
川本さんも
『万葉集』で最初に五を出して、それがとても大事だというのが俳句に乗り移った。
と発言されてゐる。次に昨日の五七調の話に入る。此処からは本筋とは離れる上に複雑なので、色を変へ活字を小さくした。
1 | 2 | 3 | 4 | 1 | 2 | 3 | 4 |
ふゆ | ごも | り● | ●● | はる | さり | くれ | ば● |
なか | ざり | し● | ●● | とり | も● | きな | きぬ |
さか | ざり | し● | ●● | はな | も● | さけ | れど |
(前略)五七調とは言いながら、リズムの上では五と七よりも、七と五のほうが、はるかに密接につながっているわけです。(以下略)
1 | 2 | 3 | 1 | 2 | 3 | 4 |
ふゆ | ごも | り● | はる | さり | くれ | ば● |
なか | ざり | し● | とり | も● | きな | きぬ |
さか | ざり | し● | はな | も● | さけ | れど |
(前略)のちに、五音句のあとに二音分の固定休止を置いて、五七だはなく七五のまとまりを連ねるほうが、ずっと安定(中略)という発見が、ある時あったと思います。
四月五日(月)
字余りについて川本さんは
現代の短歌のリズムを見ますと、どう考えても二音一拍に当てはまらないで、一拍のなかに三音があったり四音があったりする場合があります。そういう時の結論として(中略)読まれる長さはどれも同じなのだ、と。しかしそれは要するに「説明がつかない」と言っているのと同じで、ある意味で韻律論として怠慢だと思うんです。
二つのことを云はれたので、後半を赤色にした。せっかく川本さんが赤字部分で貴重な問題提起をしてくださったのに、佐佐木さんが「君が代」は同じ時間に五と七を埋め込んだだとか、乙武某の話にしてしまった。
そのあと話題が赤字部分より前の字余りまで戻り、川本さんの
二音分のマス目に三音を入れるというのがいちばん多い。(中略)音楽の三連音に近いリズムの変化と躍動感が生じる。古典和歌の字余りというのは、橋本進吉さんの研究がありまして、単独母音がある時にそれが上の音にくっつく。当時の発音によるものだと思います(以下略)
今回も重要な部分を赤色にした。つまり昔は、三連音の字余りをしなかった。私も、三連音の字余りをまったくせず、どうしても字余りが避けられないときは休止の●を消費する。ここが私と佐佐木さんとの、思想の相違だ。(終)
和歌論六へ
和歌論八へ
メニューへ戻る
和歌(八十七)へ
和歌(八十九)へ