千五百二十一(和歌) 1.歌人の一つの評価法、2.「明治文学全集63」
庚子西暦元日後(2021)
閏十二月七日(日)
歌人を評価する一番広く使はれる方法は、最高作品を見ることだ。私も長くこの方法を用ゐたが、八月以降和歌に本格進出してから、多数の歌集を読んだ。そこで感じたことは、優秀ではない作品が多すぎる。
ここで新たな評価法がある。歌集の平均値で評価する。しかしこれだと低値の比較になってしまふ。石川啄木の歌集で、別の評価法を思ひついた。最低の歌で評価する。
まとめとして、歌集は各首の関連を記さないから、かう云ふことになる。窪田空穂の優れたところは、歌集全体が日記のため、全首が関連付けてある。
私の場合は、和歌に本格進出しすぐ長歌に転じたので、各首が関連付くことになった。

閏十二月九日(火)
「現代短歌全集第二巻」は明治四十三年以降の歌集で、読み始めたものの、約七人の最初の数ページを読むに留まった。
次に「明治文学全集63 佐佐木信綱、金子薫園、尾上紫舟、太田水穂、窪田空穂、若山牧水」の太田水穂までを、本日までに読んだ。
金子薫園は前回、四つお薦めがあったのに今回は強いて挙げれば
春あさき京の御堂の梅の朝くろ髪さむし経うつす人

お薦め理由は「梅の朝」、強いて挙げればの理由は「くろ髪」と「さむし」の関連が薄い。
太田水穂のお薦めは
萱屋根に夏の日い照り干し草の香ぞする鄙のわれの通ひ路

お薦め理由は「萱屋根」と「草の香ぞする鄙」の関連が濃い。

閏十二月十日(水)
或る人の和歌理想像は、その人が他人の作品を選ぶときに現れる。だから私も、積極して他人の和歌を紹介してきた。
太田水穂の「新歌壇私見」は、佐々木信綱の和歌十首を挙げる。
立ちとまりかへり見すれは君とわが唯二すぢの眞砂路のあと

私だと「君とわれ」と作ってしまふ。「君」を主格とし「われ」をそれに合はせてしまふ。「君と」なので後方が所有格なら前方も所有格になるのか、と感心した。
さびしさに池のあひるに餌(ゑ)をやりて空を眺むる夕まぐれかな
山蔭に續く竹村桑畑わがふるさとに似たる道かな

ここは光景の美しさに感心するばかりだ。「夕まぐれ」は私には思ひつかなかった。「夕ぐれ」で字足らずになってしまふ。
世の中のせむすべをなみ新妻のうつくし妻の荷車おさす

「せむすべをなみ」は、万葉集の「あらたへのぬのきぬをだにきせかてにかくやなげかむせむすべをなみ」を知らないと使へない。感心するばかりだ。
藥賈る家の板戸を敲く子の髪吹きみだすさよあらしかな

「さよあらし」は、私には思ひつかない。
浪くらき磯の松原もやのうちに頬白(ほゝしろ)鳴きて夜は明けむとす

「もやのうちに」が字余りで引っ掛かる。「もやのうち」のほうが良くないか。私は、太田水穂や佐々木信綱より、字余りに厳しいやうだ。
梢(こずゑ)皆あらはになりて霜枯れの木立にあかき夕づく日かな

「霜枯れ」「夕づく」は感心するばかりだ。
兎追ひて走(は)せのぼりたる峠道みづうみ青し白雪の中に
紺青の水海(みづうみ)赤く日は落ちてわれ一人たつ老杉(おいすぎ)のもと
なつかしき松原見えてなつかしき島山見えて我が船果てぬ

私ならこの三つは選ばない。私と太田水穂の相違が現れた。
一首目で、「兎追ひて」は字余りだ。「兎追ひ」或いは「兎追ふ」がよくないか。それより野生動物を虐める歌は好きではない。「白雪の中に」も「白雪の中」がよくないか。
二首目は、「水海」を「みづうみ」と読み、「老杉」「おいすぎ」と読むところが気に掛かる。太田水穂は、一首目もさうだが、色の対比が好きなやうだ。
三首目は、「なつかしき」の繰り返しが引っ掛かる。繰り返しが有効な場合と、さうではない場合があり、今回は前者だと思ふ。

閏十二月十一日(木)
「新歌壇私見」は、次に金子薫園の九首を挙げる。私が強いて選べば、このうちの三首は美しい。金子薫園は前に秀作を紹介したし、太田水穂は紹介の最中だ。それなのに、私と太田水穂との違ひが現れた。
山菊のうすむらさきにほのヾ(二文字分)と花畑(はなばた)の夜は明けて行くかな

強いてと評した理由は、「明けて行くかな」が凡庸だ。
夕川に唄はで立てるうつけ子よ親はありやと涙ぐまれて

状況を説明した上でこの歌が現れれば、優れた作品だ。しかし歌集は説明を書かないから「うつけ子」を、気の空虚な子ではなく馬鹿な子、と現代人は解釈してしまふ。
籠(こ)の鳥の死相さびしや青花の彩羽(あやは)に春の夕日はすれど

「春の」が活きてない。「冬の」「秋の」でもよいからだ。「薄い」がよいのでは。
次に尾上柴舟の十首を挙げるが、私はこのうちの一つも挙げない。ここで、私と太田水穂は大きな違ひを見せる。尤も水穂は柴舟の歌を「理義に陥るの弊あり」と批判を含めて挙げたのだが。

辛丑(2021)
二月十二日(金)
今回の結論として
或る人の 作品を読む
そのほかに 他人の和歌を
推すときの 志向を見ると 理想が判る
(反歌) 表現の 綺麗な和歌を 選ぶので 私の理想 既に明らか(終)

和歌論五和歌論七

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