千五百三十七(和歌) 野田のさぎ山
辛丑(2021)
三月十三日(土)
緑図書館で「シラサギ記念博物館 失われた野田のサギ山の記録」を借りた。昭和六十一年の発行で、編者、発行所はシラサギ記念博物館だ。シラサギ記念博物館館長兼浦和学院高校理事長のことばに続き、衆議院議員兼前文部大臣、前埼玉大学長、浦和市教育委員会委員長が推薦のことばを寄せる。
私が浦和に引っ越したのは昭和四十七年の暮れで、翌年鷺山に行った。バスは途中の大崎事業所辺りが終点で、その先に行くにはかなり待たなくてはならないため、鷺山まで歩いた。
サギ山は 五十年前
異変起き サギが途絶へて
その後は 回復せずに 記憶遠のく

(反歌) サギ山は 二百数十 年(とし)重ね 一万乃至 四万羽棲む

三月十三日(土)
第一章は
シラサギ記念博物館は野田サギ山の東、(中略)浦和市代山にあります。(中略)この博物館から三〇〇メートル、県道沿いに鷺山というバス停があり、その近くに点在する民家五軒が、世にいう野田のサギ山と呼んでいる場所です。

わずか五軒とは知らなかった。
それぞれの家は、台風や冬の強い北風を防ぐために、まわりを竹やぶや雑木林を敷地内につくり(中略)この竹や木のこんもり生い茂ったさきは、広い田畠から眺めると、かわいい山のように見えたのです。

サギ山を 見渡すために
造られた 展望台を
階段で 上がりて見ると
林あり サギは姿を
現さず 虚しく時と 光が過ぎる

サギが来なくなった理由は展望台ではないか。地元の人の言葉にも、タワーが出来て人がたくさん来るやうになってから、じりじり減ったとある。
インターネットで調べると、田圃の畑化と宅地化が原因で、餌が少なくなった理由も考へられる。

三月十三日(土)
インターネットでシラサギ記念博物館を検索しても出て来ない。昭和五十三年開校の浦和学院高校の同窓会ホームページに創立三十周年事業として
昭和60年にシラサギ記念自然史博物館として建築された施設を全面的に改修し、高機能・多機能で自習スペースにも配慮した図書館として生まれ変わります

とある。市立さぎ山公園が1986年(昭和61年)に開園し、その中にさぎ山記念館がある。私は二十五年くらい前に、家族で帰省したときに、自転車で行ったことがある。
さぎ山が 消滅したは 人類の 先駆けとして 行く末示す 今分岐点

埼玉スタジアムが近くに完成したときは、これでさぎ山復活がますます遠のいたと落胆したが、サギがゐなくなったのはその二十九年前のことだ。
さぎ山から西側3キロメートル(市の中心部寄り)の三室に営巣が移り、昭和五十一年(1976)には350巣、1450羽まで増加した。しかし昭和五十三年に消滅した。この情報から、さぎ山の東を通る東北自動車道が原因とも考へられる。岩槻から宇都宮までの開通が昭和四十七年十一月、浦和と岩槻の開通が昭和五十五年なので、開通は無縁だが、工事が影響した可能性はある。(終)

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