千五百二十(和歌) 地下鉄65歳以上24時間乗車券(第二回)
庚子西暦元日後(2021)閏十二月十一日(木)
二回目
切符に印字された日時によると、前回は十時に地下鉄の新宿駅を入った。今回は十時半に池袋駅を入った。丸ノ内線に乗り、大手町駅で千代田線に乗り換へた。
今は丸ノ内線の淡路町駅で千代田線の新御茶ノ水駅に乗り換へる事ができる。前に一回この方法で乗り換へたが、今回は昔を懐かしむ小旅行のため、昔式に大手町で乗り換へた。
行き先は根津駅だ。思へば池袋と根津は、都電の臨時系統に乗る方法があった。向ヶ丘まで歩いて、箱崎町と池袋を結ぶバスに乗る方法もあった。千代田線ができてからも、大手町は乗り換へで歩く距離が長いため、どちらかを取ることがほとんどだった。そののち、都電が廃止になった。
今回、大手町で乗り換へてみると、改札を出なくて済むやうになった。しかし歩く長さは同じだ。
根津
根津で降りたら、信濃屋と云ふ食堂に行かう。さう決めて地上に出たところ、信濃屋は閉まってゐる。祝日のためだらうと、不忍通りから一本谷中側の通りを藍染町方面へ歩いた。宮の湯前の食堂と蕎麦屋のメニューを見て観音通りを過ぎ右側の店ので料金表を見てゐると、婆さんが、今は休みでその後は半分だけ始める近くに住んでゐるのか訊くので、前は近くに住んでゐたと答へた。
前とは四十九年前だが、今度来てあげないといけないかな、と思った。藍染大通りで行かうとした店は閉店中または値段が高いので、宮の湯前の食堂に戻った。この日お勧めの唐揚げ定食850円は、(1)唐揚げが大きく数も多い、(2)納豆が付くなど皿数が多い、(3)ご飯が多い、と価格満足度が高い。
食堂は 量が多くて 満足多し
定食は 唐揚げの香と 昭和の香り
昔は、仕事では体を動かすことが多かったので、皆がこのくらい食べた。ここの食堂は、お勧めだ。
言問ひ通りを渡ると、信濃屋は閉店中ではなく廃業だった。跡は医院になった。無理もない。この店の先代は私の父と同学年だから、息子も既に引退したのだらう。
千駄木
千駄木で 菊見せんべい
行くために 降りてはみたが
団子坂 上まで行くも
見当たらず 森鴎外の
記念館 庭を見たあと 次へ歩いた
(反歌)
鴎外の 家は高台 二階にて 歌人が作る 潮を観ながら
記念館は入場料三百円で安いが、かつて鴎外記念本郷図書館だった時代は、展示室は無料だった。図書館は百回くらい行ったし、展示室は三回くらい見たので入らなかった。
次に旧安田楠雄邸庭園に行ったが、水曜土曜のみ公開なのでここも入らなかった。この二ヶ所に寄ったのは、地下鉄の出口案内板に、この二つのみが書いてあった。
団子坂は、菊見せんべいが無いか再度見ながら下ったあとは、地下鉄に乗った。帰宅後、インターネットで調べると、団子坂ではなく、反対側の谷中初音町のほうへ行く坂にあった。
西日暮里
西日暮里駅のホームに降りて、まづ目に入るのがJRと乗り換へるための自動改札口だ。録音放送と説明の看板も在る。こんなことになったのは、国鉄時代に常磐線を複々線化するときに、綾瀬から西は地下鉄に乗り入れた。
だから西日暮里でJRに乗り換へると、料金が突然高くなった。これなんかは、国鉄(および地下鉄)が料金を負担して、国鉄時代と同じ運賃にすべきだった。国鉄は私鉄と異なり、料金については公平ではなくてはいけないのに、これ以外にも私鉄が平行する区間は料金を下げるなど、およそ公共とは正反対だった。
国鉄は 昭和四十 五年頃 既に堕落が 始まってゐた 上から堕落
だからJR化されることは、国民全体が歓迎するはずだったのに、中曽根康弘が今のJR総連と組んで、とんでもないことをやった。JR化を暗黒化させた中曽根の責任は重大だ。
さて、西日暮里駅前からマルエツ田端店に行く道は緩い上り坂で、登り切ると東北線と同じ高さになる。線路敷地と道路の間にコンクリート製の古い柱があり、昭和四十年頃に新しい柱が鉄橋の手前まで長距離に亘り新設された。
今回行ってみると、古い柱は残り、新しい柱はすべて撤去された。
町屋
町屋はかつて都電の線路に沿って民家や商店街が並んだ。これらは昭和五十年代に都電の周囲を道路化する工事の一環で、歩道化された。駅前に大きな商業ビルが建った。
京成側の地下鉄入口を降りると、地下一階はカラオケ店の入口だ。
入谷
北千住は改札を出ることなく、千代田線と東武が繋がったため、そのまま日比谷線に乗った。乗り越して上野まで行ったが、戻って入谷で下車し、お墓参りをした。
上りと下りで改札が別なのは、丸ノ内線時代の名残りだ。
人形町
寄席「末廣」は昭和四十五年に廃業した。当時は都電廃止に熱中したため、末廣には入場したことがない。あった場所はインターネットで調べたが、ずいぶん歩いたが判らない。水天宮前まで行ってしまったので、風が強く体が冷えたこともあり、地下鉄の駅に戻った。二駅乗ったものの考へ直して、人形町に戻った。外に出て、四辻を左折すると前方に読売ISビルがあった。
インターネットだと、一区画先のはずだが、これが地下鉄駅の困るところだ。あと、人形町駅は地下鉄の走る道路とは直角の道路に出口があるため、間違へた。
ビルには「末廣跡」と云ふ石がある。ガラスの内側に、絵が展示してある。贔屓筋から送られたのぼりは「末廣亭」と書かれ、左隣の家は現存する。ビルは右隣を含めた二軒分で、末廣のあったのはビルの左半分だ。
わざわざ来た価値はあった。インターネットでは、ここまで判らない。
新橋
イタリア街に行った。三角広場の周りだけがイタリア街との感想を持った。CoCo壱番屋港区ヴィータイタリア店が閉店し、改装工事中だった。インターネットで調べると、店内は普通のCoCo壱番屋だが、外装が異なるらしい。
同じくインターネットで調べると、三角広場の周りだけではなく五区全体がイタリア街だ。さう云ふ前提で見ないから、見えなかったのかも知れない。イタリア公園が三区にあることと、五区は線路で他の四つの区と切り離されたことが難点だ。(終)
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