千四百七十五 終戦直後に女子総合職が一時誕生した
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
九月三十日(水)
母が入社した松本電鉄で、母の後にも全体の仕事ができる人を三名採用した。思へばこれは女子総合職の走りだ。
終戦で、世の中が混乱したし、考へ方も一変した。だから一時的に誕生したのだらう。
しかし母の後に入った三人のうち、一名は退職、一名は自殺。自殺者は、男女関係が問題になり会社が退職させた。その後、自殺したさうだ。辞めた人と併せて、普通の職種(車掌や事務)にすれば良かったのではないか。母の話からさう云ふ印象を受けた。
残りの一名も退職したらしい。母が云ふには、言はれたことをやるだけでは駄目で、上の仕事ができると思って入社したところ違ったためではないか、とのことだった。

十月一日(木)
今から三十五年前にQCサークルが流行した。しかしすぐに廃れた。その理由は、正式の業務ではなく、サークルにしたからだ。勤務時間内にサークルを行ってもよいし、勤務時間外に行ってもよい。但し勤務時間外のときは、残業手当がでない。報奨金くらいは出すところが多かったが、残業手当よりは少なかった。
勤務時間内は忙しいから、なかなかQCサークルを開けない。時間外に開くと、参加者は損をした気分になる。これが廃れた理由だった。
提案制度もこのころ流行した。提案内容によって五百円から1万円程度の報奨金が出た。この制度は、提案ではなく要望が多いため、会社側が廃止することが多かった。

十月二日(金)
QCサークルや提案制度の根底にある思想は、すべての従業員を総合職化すれば戦力になる。
但しこの当時は、総合職に人たちに既得権があり、これらの人たちが会社の要職にあったから、すべての従業員を総合職化することはできなかった。
最近になって、一般職の廃止や、転勤できない人は事務所固定の労働契約を結ぶなど改善が為されたのは、将に全従業員総合職化だ。
そのやうなことを、松本電鉄が七十五年前に試したのは、終戦直後で新しい時代が到来したためであった。

十月三日(土)
終戦直後の新しい息吹は、自民党と社会党の対立で、堕落を免れた。実際には、自民党と社会党が堕落し、堕落した者どほしの対立ではあったが。
米ソ冷戦が終結の後は、社会全体が堕落した。(終)

追記十月四日(日)
交通機関には、一人分以下の仕事をしてはいけないし一人分以上でもいけない、と云ふ教訓があるさうだ。これは母の話ではなくインターネットで見つけた。運転士がホームで転んだ人を助けるうちに電車が動き出したら大変だ。 乗車中は一人分、それ以外の時間は一人分以上なら可能だ。これは普通の会社員にも当てはまる。お客様の電話に対応しながらデータ入力をやるなんて、そんな失礼なことをしてはいけない。すべての職業には、一人分の仕事をするときと、一人分以上の仕事をするときがある。

追記十月十七日(土)
たまたまインターネットで昔の島々駅の様子を書いた記事があり、母に見せて、そのとき幾つか話を聞いた。
松本駅に新宿からの夜行列車が到着すると、膨大な登山者で歩けなくなるくらいだった。島々駅も電車が到着すると、膨大な人数で、数十台のバスに乗れない人が多数出て、上高地から来るバスを二時間待った。
母は上高地に勤務し、松本や島々に勤務したことはなかったが、混むと乗客は苛立ち、男子先輩社員が指示する言葉が荒くなり、それで女子社員は退職する人が多かったのではないか。母は兄弟姉妹がたくさんゐたので、混雑は慣れてゐた。全国から偉い人が来て、社長とも話すので、それで認められ、本社勤務になったのではないか。
諏訪でスケート国体があり、諏訪自動車への応援で、切符売り場を担当した。
皇族は上品で、バス車内で無駄話をしなかった。
バスの転落事故で、大阪の確か製紙会社の社長が亡くなった。専務が来たときに、お茶を入れた。


追記十月二十五日(日)
母から聞いた話を追記すると、国体は蓼科湖で行はれた。松本電鉄から五台のバスが応援で諏訪自動車に行った。全国から偉い人が来た。

追記十一月五日(木)
インターネットで昔の写真を見つけた。ボンネットバスが二台並び、一台は方向幕が「上高地」、もう一台は「鈴らん」だ。鈴らんはどこか母に訊いたが判らない。そのとき聞いた話は
ガイドは事務無理
3人のうち1人はコネ。社長の叔父が専務で、専務の関係で入社したが後に自殺した。
母はコネではなく普通に入社したが、そのあと伯父の知人が上に上げてくれたのかも知れない。

伯父の知人は自動車部長から常務になった。ガイドは事務が無理と云ふ話で、母は高等女学校卒だが、ガイドや車掌は高等小学校卒だったのかも知れない。
鈴らんは後に調べて、乗鞍高原だと判った。

追記十一月九日(月)
明科、豊科、大町、辰野、島々などに出張所があった。大町は大きかった。近くに住む社員が担当するが、休むときは母が臨時で行った。切符売る、お金数える。
島々は混むので所長も切符を売った。
三人は事務をやりたかったのに現場。

(東京都交通局では車掌がお金を誤魔化さないやう勤務後風呂に入るとき衣服をチェックした話に)松本電鉄ではやらなかった。

追記十一月十四日(土)
入社は昭和二十三年。その年にコンクールで二位になったので、交通安全協会の表彰状は部課長会議で全員が母を推薦した。コンクールは県知事までバス車内で質問した。
混むときは、マイクで何番から何番まではここに並んで、と誘導した。
外国人が多いので、市内で日本人から英語を習った。片言でも話せば通じる。そのあと会社の幹部たちも習ふやうになった。
伯父の知人が自動車部長で来たのは、もっと後。(続く)


メニューへ戻る 前へ 次へ