千四百六十七 (和歌)長歌と反歌を作り始めた感想
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
九月十一日(金)
長歌を作り始めて判ったことは、長歌にするのは無理だと思ふ内容でも、順番を入れ替へたり単語を云ひ替へることを繰り返すと、長歌に収まる。不思議なことだ。
「1463(和歌)柏崎寺泊假想訪問記」と「1464(和歌)中華街に行かう」は、反歌が独立した短歌としても読めるのに、「1465(和歌)市内の中堅驛前通り」と「1466(和歌)東急バス1日乘車劵」は、反歌を独立させて読むと意味不明になる。
最初はなぜなのか理由が判らなかったが、「この店」を「料理店」、「ここまでは」を「煉瓦まで」などに直すことで、独立した短歌になった。単に推敲不足が原因だった。
飛鳥奈良 当時の人が
時間掛け 景色に気候
出来事に 心の動き 今に伝へる
(反歌)反歌には補足のほかに単独の短歌としての美しさ有り

九月十二日(土)
航空機の乗客がマスクの使用を拒否し乗務員を威嚇したため、途中の空港に臨時着陸する騒ぎになった。これは航空会社の対応が正しい。ゼロサムの原理でマスクを着用した人が損をするからだ。
それなのにホリエモンが、航空会社を批判した。そもそもホリエモンは実刑判決を受けて刑務所に入った。刑期を終へて出所したのだから、社会は暖かく迎ひ入れるべきだが、ホリエモンは有名になったことを利用し、いろいろな発言をする。一番悪いのはホリエモンの発言をいちいち取り上げるマスコミだが。
今までだったらこの件で「1467 ホリエモンの発言を批判」など特集を組んだが、和歌の特集を組んでゐると、世の中の些細な事件に反応するのではなく、和歌を作って人心を良くすることのほうが重要だと思ふやうになる。
作歌には 心を静める
働きと 更に観察
することも 仏道で云ふ 止観に当たる
(反歌)作歌した文章により世の中が良くなるならば言霊ぞかし
短歌や俳句に親しむ人は多い。作品が世の中の役に立つのかを、考へながら作ってほしい。とは云っても、心を落ち着かせて、周囲や自分の心を観察する。これ自体が止観だから、それだけで世の中の役に立つ。

九月十三日(日)
かつて文章は文語、会話は口語だった。方言の保存に役立つので、今でもそのほうがよい。奈良時代は、法令や論文は漢文、それ以外は長歌を中心とした和歌だったのではないか。これは推測だから、例外を示すことはできよう。
しかし今の時代なら、論文は散文、随筆は和歌で書くことが可能だ。すべて和歌にするのは大変だ。散文に和歌を入れるとよい。
文章に 手間隙掛ければ
見る人は 心地よく読め
為になる 書く本人も 功徳溢れる
(反歌)文章は推敲重ね時重ね読む人書く人双方の為(終)

和歌論三和歌論五

メニューへ戻る 前、和歌十二次、和歌十四