千四百五十三 馬場紀寿さんの東大テレビ「仏教が説く秩序の形成と崩壊」を批判
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
八月九日(土)
馬場紀寿さんも、東大テレビで「仏教が説く秩序の形成と崩壊」を講演した。その内容をYouTubeで見たところ、批判すべき内容が幾つもあった。
まづ知覚作用が眼耳鼻舌身意に分けられるが、これらを統括する自己(アートマン)は存在しないと云ふ。これは批判にさへ値しない。馬場さんも内心は不十分だと思ったらしく、次のページには五蘊を並べて、色受想行識を統括するものはないと云ふ。こちらは批判に値する。
五蘊を統括するものがアッタン(サンスクリット語でアートマン)で、永遠に続くとするのが「常見」、死ねば終りとするのが「断見」。仏道は「中道」「無記」を説き、どちらでも無いとする。以上はWikipediaの記述だが、アッタンは無常なのだから、長期では涅槃、中期で永続と解釈するのが普通だ。
涅槃のあとは筏の喩へ(川を渡るため筏を組み、渡り終へたら担いで歩く必要はない)のとほり、無常さへ超えるから、本当の「無記」だ。来世への執着が強い人には、無常と云ふ概念は筏(瞑想法)だとすればよいし、強くない人には無常そのものでよい。
馬場さんは、講演の最後に筏の喩へを紹介し、馬場さんの講演も捨ててほしいと発言した。冗談ではない。筏を捨てるのは彼岸に至ったときだ。馬場さんの講演を聴いたときではない。
馬場さんは色受想行識の「行」に、行為が自分を作る、諸行為には欲がある、と特別な役割を持たせた。しかし「行」は五蘊の一つであり、しかも四番目であり一番目や五番目ではない。特別な役割はないと考へるのが普通だ。
部派仏道の時代に、説一切有部から犢子部(とくしぶ、Vātsīputrīya)が分派した。犢子部は輪廻の主体(Pudgala)を説いた。仏教と云った場合は、現存する上座と大乗、更には部派時代の各派の主張を対比させないと、正確ではない。

八月十日(日)
経典には、人間は光り輝く存在だったが、欲望を抱くやうになり、犯罪者を罰する代表者を選んだとある。釈尊の発言には、絶対に正しいものと、たまたま質問されたから答へたもので間違ひがあっても周囲が納得するものがある。
この経典の内容は後者だから、馬場さんはそのことを解説すべきだった。それなのに馬場さんは、次の話をした。
アウンサンスーチーさんが欧米メディアのインタビューで、アジアに民主主義はないではないか、と質問され、ビルマは人々が調停をしてもらふため王を立てたと云ふ経典の話をした。
アウンサンスーチーさんは咄嗟に質問されたから、かう答へたのであり、これは西洋マスコミに対する完璧な答である。私だと時間が十分にあるし、常日頃言ふことだから、次のやうに答へる。
---------------------------ここから「歴史の流れの復活を、その三百七十五」---------------------- 八月十一日(月)
ヒンドゥー聖典に、一つの国が敵味方に分かれて争ひ、王子は親戚などが敵にたくさんゐるので戦意を喪失した話がある。馬車の御者になってゐたクリシャナは真の姿を現し、1.私は世界を滅ぼす者だ、2.あなたがゐなくても敵軍のすべての戦士は生存しないだらう、3.立ちあがれ。
原爆の実験に成功したオペンハイマーの趣味はサンスクリットで、実験成功の時に、世界を滅ぼす、の部分を思ひ出した。後に反原爆運動に転じ、この話はそのときのインタビュー。
この話の引用は非常識だ。たとへ反原爆運動に転じた後の話でも、人類史上最悪の戦争犯罪(先ほどの地球温暖化は人類史上最悪の犯罪)をヒンドゥー経典と結び付けてはいけない。
判りやすい例を挙げると、元暴力団幹部が足を洗ひ犯罪撲滅運動を始めたとする。昔、対立組織との抗争でその人は手を下さなかったものの隣や目の前で何人も死んだときに、大乗経典の一節を思ひ出したと発言したとする。
発言した人は、犯罪撲滅運動の中で話したのだから無罪だ。しかしそれを経典の解説に引用した人がゐるとすれば、実に悪質だ。今回は更に、人類史上最悪の戦争犯罪である原爆を正当化した。(終)

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---------------------------ここまで「歴史の流れの復活を、その三百七十五」----------------------

追記八月十四日(金)
私自身は、魂(アッタン、アートマン)が涅槃で消滅する説に賛成だ。特に、地球滅亡が目前にせまった今となっては、大賛成だ。
しかし日本のやうな元大乗国(明治維新で日本の仏道は滅びた)でさへ、この説に賛成する人は少ない。ましてや多神教、一神教、これらの崩壊した国々では、賛成しない人が多いだらう。だから対策を考へた。北伝に含まれる部派仏道経典との整合を考へた一面もある。中村元さんとの整合を考へた一面もある。

その一、固定思想(二百五十の一)固定思想(二百五十一)

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