千四百三十 三水路観察記
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
五月二十一日(木)
一昨日と昨日は、それぞれ独立に或る程度のまとまった雨があった。今朝の食後に辻用水まで行くと、国道手前の暗渠入り口に、コイが一匹ゐた。
流れはほとんどない。東北線線路手前の石が干上がるところは、水深が15cmくらいでかすかに水流がある。雨で増水を警戒し、見沼代用水西縁の水量を止めたのかも知れない。石が干上がるところの更に上流は、一匹確認できた。

五月二十二日(金)
今朝はまづ辻用水に行くと、相変はらず水量がほとんどない。数日前の水流は試験送水だったのか。そこで元西福寺前分水口まで往復した。水門が開いて水がすべて新曾用水と笹目用水に流れるのか確認のためだ。
行ってみると、水門はいつもと変はらないやうだ。と云っても下部を開けるから、どれだけ開いたかは判らないが、水量からさう判断した。
朝八時前に水門付近に行くのは初めてだ。辻用水は滞留し、直径5cmくらいの家庭雑排水と思はれる10くらいの突き出た排水管の二つから水が排水され続け、泡立った。別の場所では薄い油膜がある。水門から15mくらい離れた場所では、泡が水門に向かふ。水門近くに水流がないのは底部で流れるためか。
こんなところにも鯉が一匹ゐた。中央排水路から排水路へは干潮時は一段上がるが、満潮時はそのまま繋がる。しかし排水路から笹目用水は滝だから無理だ。
一方で中央排水路から辻用水へは満潮でも水深数cmの緩やかな傾斜が3mほど続く。ここは上がれないだらう。利根川から見沼代用水に入り、はるばる下流まで来たのだらうか。或いは誰かが放流したか。

五月二十三日(土)
中央排水路から新曽用水に登ることはあるだらうか。朝食後に自転車で見に行った。見沼土地改良区の標識もある。ところが丁字形の暗渠の蓋に突き当たる。ここは北戸田駅周辺の水路を調べに来たことがある。右へ行けば、一ノ瀬さんの家のほうに繋がる。その先は付け替へた県道があり、追跡は不可能だ。
左へ進むと蕨市立の小学校横に暗渠が続き、しかしその先で途切れる。こちらは蕨用水の跡かも知れない。左右に分かれる前の水面を凝視すると、かすかに水流がある。新曽用水と笹目用水の分流地点で凝視してもあった。
NPOのホームページで、二年前に戸田市が雨水の排水路を上戸田川に集約させ、二枚橋から蕨市の富士見野球場に接続するとある。ますます追跡できなくなった。

七月二日(木)
見沼土地改良区のホームページを見ると、見沼代用水の今年の通水は4月16日から9月30日だ。
昭和五十年頃は、一年中水が流れ、田植ゑの時期は増水した。そしてこの時期は、辻用水や蕨駅北東側の水路で、釣りをする人たちが現れた。今は変はったのだらうか。インターネットで調べると、昭和三十年代の見沼代用水の水位を示すグラフが見つかった。
S30 6月上旬から7月下旬 2割増し
S31 6月上旬から9月上旬過ぎ(この先はグラフ切れ) 3割増し
S32 5月下旬から9月中旬 2割増し
S33 5月中旬から9月中旬 3割増し
S34 5月中旬から9月中旬 4割増し
昭和五十年頃の田植ゑの時期は、水量が数倍に増えたから、昭和三十年代とは異なる。その理由として、昭和四十三年に完成した合口1期工事がある。利根大堰が完成した。このあと合口2期工事が昭和五十三年から平成七年まであり、東京と埼玉の水道水を捻出することになった。見沼代用水が土堀からコンクリート製に変はり、幅が狭くなった。だから遊歩道を歩くと、余った側帯に作られたものだから複雑な気持ちになる。(終)

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