百四十、石原莞爾(その二)連隊長から予備役まで

十月十九日(火)「連隊長時代」
日本の軍部は、欧米帝国主義の都合のいいところばかりを真似した。徴兵制度、将校下士官兵の制度はその一つである。そのため上層部には特権意識、下級兵士には不合理をもたらした。石原莞爾は連隊長時代に大いに改革を行った。まず新兵いじめをなくすために中隊に同じ出身地のものを集めた。官給品を紛失すると処罰されるために紛失したときは他の班から盗むことが一般化していた。それをやめさせるために紛失したときは再支給するようにした。貧しい家庭の出身が多いので厩舎でウサギの飼育法を教え、除隊のときにお土産に持たせた。食事がまずく残飯が多いので調理師を雇いそれ以後残飯がなくなった。風呂に電気式の濾過器を設置して風呂の水を清潔に保った。

なぜ他の師団長や連隊長にはできなかったのだろうか。ここに軍部の特権意識と官僚化がある。兵は待遇が悪くて当たり前だという意識と、他と違うことをやって出世が遅れたら大変だという事なかれ主義である。

十月二十二日(金)「永田鉄山斬殺」
石原が連隊長から参謀本部作戦課長に栄転した日に、陸軍省軍務局長の永田鉄山が相沢中佐に斬殺された。この後石原は日華事変不拡大で失脚するまで参謀本部の実権を握るから陸軍省の実権を握っている永田と組んでいたらその後の日本は大きく変わったに違いない。その理由は、永田は殺される十数日前に「関東軍の満州国に対する内面指導は早く打切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもって行く必要を痛感した」と矢次一夫に語った。これこそ石原が常に主張していることであった。矢次は「永田によれば、満州国に対する政治的内面指導は、満州国の育成上必要として考えられたものであるが、視察の結果は、満州国創成の意義を理解せざる俗物軍人や、この軍人を利用する一儲け主義の民間人のため、悪用される危険が高まりつつあり、むしろ早きに打ち切って、満州国の自立を助けることこそ賢明と考えたらしい」と述べている。
相沢は石原に軍法会議の弁護人を依頼し石原も快諾した。ところが後日相沢の使者から依頼を取り消すと言われた。相沢は軍法会議で死刑判決が出た。執行される数日前に石原が面会に行くと、弁護人をあとから断るなんてひどいじゃないか、と言われ偽の使者だったことが判った。石原が弁護人をすると相沢を騙した皇道派の陰謀が明らかになってしまうからだと石原は考えた。

十月二十三日(土)「皇道派と統制派」
永田鉄山などは長州閥に反対する活動を始め、荒木貞夫や真崎甚三郎も担いでいた。三月事件は永田鉄山が筋書きを作った。しかし荒木、真崎の専横が過ぎるにつれ、また永田が実力を付けるに連れ、荒木、真崎の皇道派と永田の統制派に分裂した。だから皇道派がクーデター肯定、統制派がクーデター否定と言うのは正しくない。
どちらも農村の貧困を見て、皇道派は天皇親政の精神主義、統制派は統制経済で乗り切ろうとした。永田が暗殺されて統制派は消滅したと言える。強いて言えば石原が永田の思想に近い。だから二・二六事件では石原も殺害者リストに載せられていた。

石原は真崎と仲が悪かった。その原因は次のことしか考えられないと石原は述懐している。ドイツ出張中に真崎が来てドイツの有名な将軍に会いに行った。石原が質問したところ将軍が喜んでまた来てくれ、と石原に行った。真崎には何も言わなかった。帰りの車の中で真崎が窓を見ながら「まったく、若い者は」とぶつぶつ文句を言った。

十月二十四日(日)「反乱軍鎮圧」
私がこれまで石原を嫌いだった二番目の理由は、石原は出世欲に駆られて反乱軍鎮圧に積極的だったのだろうという疑惑であった。しかし石原は二・二六事件が片付いたら責任を取り予備役編入を強硬に主張したように出世欲で行動しているのではなかった。結局は慰留され現役に留まる。

統制派は社会主義、皇道派は自由経済だという主張がある。これは正しくない。永田鉄山は三月事件で次のような筋書きを作った。社会民衆党、全国大衆党、労農党にデモを起こさせ、陸軍が出動して国会を封鎖して内閣総辞職を要求する。宮中では陸相が天皇に拝謁し侍従が妨害するときは侍従武官長が弾圧する。そして宇垣陸相に大命が下る。だから統制派が社会主義だという主張は一理ある。
しかし皇道派も二・二六事件の反乱将校は北一輝の影響を受けていた。北一輝は二十三歳で「国体論及び純正社会主義」を出版し社会主義者の河上肇に賞賛されている。だから皇道派も社会主義であった。財閥と結びついた二つの自由政党だけが自由経済で、あとは統制経済だった。

十月二十五日(月)「日華事変」
石原が参謀本部第一部長のときに日華事変が起きた。このとき参謀総長は閑院宮で名誉職に近く今井参謀次長は病気療養中のため、参謀本部の重責は石原第一部長が担った。石原は不拡大派だった。後に多田次長が就任するがやはり不拡大派だった。しかし部下の武藤作戦課長や陸軍大臣、次官などは拡大派で次第に拡大派が主流となった。このときのことを石原は、周りの面従腹背にやられた、と述べている。そして第一部長を更迭され、二度と陸軍中央に戻ることはなかった。

十月二十七日(水)「二度目の満州」
石原は関東軍参謀副長に左遷となった。二度目の満州で見たものは、高給取りの日本人官僚、特権意識を持った日本人、不動産を安く買い取る悪徳日本人不動産屋などだった。永田鉄山の語った「満州国創成の意義を理解せざる俗物軍人や、この軍人を利用する一儲け主義の民間人」である。石原の目には参謀長の東條英機が俗物軍人の代表に映った。そして東條と激突する。

十月三十日(土)「予備役願」
石原の半生は病気との闘いだった。昭和三年中耳炎に罹った。重症で頭蓋骨に穴を開ける手術の直前まで行った。昭和九年露営中に木炭中毒に罹り八年間不整脈になった。連隊長時代が一番悪く、二階の連隊長室に行くにも息が切れ手が痺れて乗馬の手綱を握れないこともあった。満州事変のときは中耳炎の後遺症か発熱が続き横臥して執務した。昭和七年膀胱腫瘍に罹った。開腹手術をしても再発し激痛と血尿に悩まされた。これがのちに悪性化し全身に転移して昭和二四年に亡くなった。

東條が事務次官に転出した後に予備役願を提出。しかし関東軍司令官や板垣征四郎陸軍大臣に慰留され病気療養を名目に帰国を認められる。その後、舞鶴要塞司令官、留守十六師団長を勤め、東條大臣の時に予備役に編入させられた。 このとき以降が石原の本当の主張となる。


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