千四百九 島田裕巳さん『「神社で柏手を打ってはいけない」納得の理由「二礼二拍手一礼」はウソだった』に賛成
庚子(仏歴2563/64年、基督歴2020+3+α年、ヒジュラ歴1441/42年)
一月十二日(日)
島田裕巳さんに対して、これまで悪い印象を持ってきた。しかし今回はそれを逆転する話だ。
島田裕巳さんに悪い印象を持った理由として、創価学会公明党の言論出版妨害事件について、島田さんは公明党議員を他党に移せば解決したと主張したのに対し、私はそれでは駄目で議員が一旦辞職するか次回の選挙に立候補しないことでなければ駄目だ。(そのときはさう思ったがその後、あれだけ世間から注目されるには膨大な広告費を使ってもできないからあの機会を利用して中央突破すべきだったと考へるやうになったが)
しかし当ホームページで島田さんについて検索すると、この話が出て来ない。あとオウム真理教のサリン事件が起きたときのコメントなどで、本質とは無関係、解決とは無関係の話をすることに嫌悪したのかも知れない。
今回島田さんはPresident Onlineに
「神社で柏手を打ってはいけない」納得の理由「二礼二拍手一礼」はウソだった

と云ふ記事を書いた。これは島田さんの著書『神社で拍手を打つな!』(中公新書ラクレ)を抜粋編集したものださうだ。
神社に参拝に行く(中略)多くの人たちは、そのとき、「二礼二拍手一礼」という作法によって、参拝している。

ところが
少し年齢が上の世代になれば、自分が若い頃は、そんな参拝の仕方はしていなかったと、昔を思い出している人たちもいるのではないだろうか。実際、二礼二拍手一礼という参拝の作法が広まったのは、それほど昔からのことではない。(中略)昭和の時代には、まだそれほど広まってはいなかったのではないだろうか。

これはすぐれた考察だ。私が今でも神社で合掌するのは、神仏分離を認めないからだが、考へて見ると昔の人は皆、合掌してゐた。

一月十三日(月)
現在では、多くの神社で、二礼二拍手一礼を奨励する掲示がなされ、参拝者もそれに従っている。(中略)だが、私を含め、年齢が上の人間になると、二礼二拍手一礼にはどこか違和感があり、このしきたりに従わないということも多いのではないだろうか。
なぜ違和感を持つのだろうか。それは、二礼二拍手一礼が、もともと神職の作法であり、しかも、それを行う前に玉串を捧げる行為が実践されるべきものだからである。本来、二礼二拍手一礼は、単独で行うものではない。玉串に伴う作法なのである。

そのため
社殿の前で、ただ二礼二拍手一礼をするというときには、祈念するという部分がない。そのため、参拝者のなかには、二拍手をした後にそのまま合掌し、祈念する人たちがいる。そうしないと祈念しないまま参拝が終わってしまうからだ。

そのとほりだ。
二礼二拍手一礼の作法を推奨している神社、あるいは神社本庁の側は、その作法に祈念する行為が欠けていることについて、十分に検討してきたのだろうか。ただ、正しい作法というものを指導することによって、自分たちの権威を示そうとしてきただけなのではないだろうか。

近年は神社に不祥事が続出だ。神社本庁内部の問題や、神社本庁が全国の神社の人事に口を出すことの是非。それが原因で富岡八幡では宮司への前宮司による殺人事件まで起きた。
今こそ国民は、昭和の頃はあたり前だった神社での合掌に戻さうではないか。(終)

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