千四百四 二つの高崎ダルマ市
庚子(仏歴2563/64年、西暦2020、ヒジュラ歴1441/42年)
一月二日(木)
青春18切符が二回余った。台風で行きそびれた名古屋と云ふ計画もあったのだが、自然消滅した。切符は10日までだ。そこで分裂した二つの高崎ダルマ市を調べることにした。
本日、家で早めに昼食を食べたあと出掛けた。高崎駅前会場は1日と2日だ。高崎駅には午後2時少し前に着いた。駅前では何人ものアルバイトが、だるま市のパンフレットを配る。熱心なことだ。この時点では、駅前のだるま市にも好意的だった。
しかしだるまの販売が、個人商店ではなく組合で統一と思はれることと、値段が書いてないことに、少し不信を持った。
通りの一番端の大道芸の舞台で、幻滅した。ダルマは達磨大師に由来する。更に起き上がりこぼしの不屈の心も表す。大道芸をすべき時と場所でするのはよいことだ。しかし正反対のときに演じると、逆効果になる。
そもそもだるま市をなぜ1日と2日に行ふのか。コンビニエンスストアなどの元日開店が問題になってゐるときに、アルバイトを雇ひ、大道芸をやり、露店を出すのは頂けない。
この日は、駅前通りを終端まで往復しただけで、東京方面の電車に乗った。これだけでは物足りないので、口直しに越谷レークタウンに行った。今まで一回も行ったことがない。それはここが元は沼地や田圃だったところだ。ショッピングセンターを作っても、歴史と断絶してゐる。
しかし一つ発見があった。越谷だるまの出店があった。分裂のあった高崎だるまは見捨てて、越谷だるまを見直さう。

一月三日(金)
2016.12.22の産経新聞電子版によると
年始めの風物詩として全国に知られた少林山達磨寺(群馬県高崎市鼻高町)の「だるま市」が、運営を巡る対立からだるまの露店がほとんどいない異例の開催となって約1年。溝はますます深まり来年1月はJR高崎駅前(元日、2日)と寺での祭り(6、7日)という異例の“分離開催”が決定的となった。(中略)だるま市は毎年、露天商約200店、だるま販売店約60店が並び夜通し市を開き、参拝客20万人が繰り出す年始の風物詩だった。

対立の原因として
住職によると、警備や電気設備など多額の運営費の多くは寺が負担していたという。昨年、寺は応分の負担を出店料として求めたところ、露天商側が猛反発、出店を拒否し、組合まで追随して不参加となった。それでも今年1月のだるま市は少数のだるま商有志が寺近くで販売はした。来年1月は有志さえいない状態になりそうだ。

これに対して出店者側は
「寺が要求してきた出店料は高すぎて、とても払えない。寺と何度か交渉を試みたが、解決の糸口も見いだせなかった。決裂は残念だが、新たな祭りを行うことを決断した」。

ここまでは双方の主張に問題はない。しかし
高崎市は当初なんとか融和をと呼びかけたが、事態は動かず、9月に(名前略)市長がだるま商らと協議し、寺ではなく市中心部で別のだるま市を開催することに決まった。
根拠として約190年前、市内の田町で初市が行われたという資料を発見したという。
間違ってゐる部分を赤字にした。190年も前の資料を出し、しかも何回開催されたのかも不明だ。これだと市側が悪い。だいたい190年前は高崎駅が無かったのだから、駅前のだるま市では話にならない。
寺側ともめて分裂開催しましたと云ふのなら中立だったが、赤字部分でお寺側支持になった。
恒例のすす払いがあった18日、達磨寺の参拝客からは「今年の1月、なぜ境内でだるまを売っていないのか不思議だった。毎年楽しみにしていたので大変残念だ」の声も。寺では「少林山七草大祭だるま市」の正式名のまま1月6、7日、能やコンサートも交え「星祭大祈祷(きとう)など正月七草の伝統行事は粛々と行う」という。しかし肝心のだるまは社務所でお守りなどと一緒に売る程度という。だるま市というには寂しい。

これについて2017.1.11の産経新聞電子版によると
本堂前で、だるまを売るテントは1張り。市内のだるま商、国峰悦雄さん(69)は「歴史あるだるま市を絶やすわけにいかない。寺とのつきあいもあるので出店を決意した」と話し、「(だるま商)組合からは出るなと言われた」と打ち明ける。

これだと、ますますお寺側が正しい。そんな圧力を掛けては駄目だ。

一月六日(月)
例年1月6日と7日に小林山達磨寺の「七草大祭だるま市」が開かれる。本日は仕事始めで休む訳に行かないので、明日休暇をとり高崎に行く予定だ。来年は六日が水曜だから、参加できさうだ。
インターネットで達磨寺を調べると、住職のブログに次のものがあった。貴重なので紹介すると
4月6日タイから22人の僧侶がやって来ました。
3月の寒い日に上座部仏教の僧が来ているというので、寺務所に来て頂きました。
話をしているうちに、私もタイに行ったことがあるというと、だんだん話が盛り上がりました。
彼らはタイ国王の建てたRama 9 jubilee Temple という寺から来て、4月に小僧見習の子供達20数人を連れてくるので、日本の坐禅を指導してくれとのことでした。
仏教国のタイでは男子は必ず一度は僧侶となって修行しないと一人前に扱ってもらえぬと言われるほど熱心なお国柄です。
そして今回は本格的な修行に入る前に子供たちの体験修行ということで、1月間の体験の中で1週間、日本に滞在して日本の仏教文化を勉強するのだそうです。
さて、この寺の中にはテレビ局があり、毎日仏教の番組を放送しているそうです。日本で仏教が盛んに行われていることを取材したいとのことでした。
当日、桜の満開のなか、大人の僧たちと同じ衣をまとった子供達(女性は白い衣)は二階の坐禅室で坐禅に調整しました。
タイでは足を組むことななく、楽な姿勢で心を落ち着かせる行として行い、集中するというよりも、ただただリラックスする行のようです。
姿勢と呼吸法を丁寧に説明すると大人の僧達の方が喜んでいました。
その後、インド人の達磨大師が中国にお釈迦様の教えを伝え、それが日本に伝わったことなどを話し、その後境内の案内をしました。

このあと境内を案内する写真などのあと、だるまさんについて
タイでは高僧が子供のおもちゃになることはなく日本で異国の僧がこれだけ親しまれているのが不思議に見えるそうです。


一月七日(火)
信越線の群馬八幡で下車し徒歩15分。朝10時からの大般若経の転読法要に間に合ふやうに行ったが、本堂に入る訳ではないので、急ぐ必要は無かった。それでも読経の様子はスピーカーから流れるし、転読を外から見ることができた。
開眼の受付に、500円、他で購入し祈願してゐないものは800円とあるので、仏像の開眼に当たるものは祈願ではないかと質問した。受付の僧は、何と白河の黄檗宗のお寺の弟さんださうだ。お兄さんは病気で来てゐないとのことだった。
昔、タイで出家したチンナワンソ比丘が瞑想会を白河のお寺で開き、私も参加した。達磨寺のホームページに、日本だと小学生の年齢のタイの沙弥が10人ほど来日した写真が載ってゐるが、なるほどその縁も関係するかな、と思った。
達磨は売店のほかは一店のみ。しかしテント三つくらい使用し、繁盛してゐる様子でよかった。出店者の車をまとめて駐車してあるところを見ると、新潟、長野などで、焼き栗を売る人に訊いたところ、全国を廻るさうだ。私は焼津の業者から芋焼酎のお湯割り(300円)を二杯、かなり間隔を置いて飲んだ。
食事コーナーの終はった先に、食事移動販売車での出店が三つほどあるので、その中の一番流行ってゐない店で、ナチオス(インターネットで調べるとナチョス。メキシコ料理風のコーンチップに香辛野菜微量と辛いケチャップ風のもの)200円を食べた。これは美味しい。境内を何周かしたあと、今度は焼きそば200円も食べた。プロレスラーMAZADAの店と云ふ看板があり「ステーキまさやん」のチラシを頂いた。この3台は地元のナンバーだった。

一月十一日(土)
ホームページに料理名を書くときに思ひ出せないので「ステーキまさやん」のチラシに電話をしてナチオスだと教へてもらった。
この日は達摩寺を出たあと、駅への道を間違へて工場の周りを一周してしまった。そして一本乗り過ごした。次の電車まで一時間あるので駅前通りを往復した。案内図だと商店街みたいに描かれるが、実際は店が点在する程度だ。丸三綿業の本社工場に、大学の睡眠科学センター高崎研究所の看板があることが記憶に残った。
その隣の小島鉄工所は、敷地が更に広いのに今地図を見るまでまったく記憶に残らなかった。駅前通りに面する工場は丸三綿業だけだと思ってゐた。地図を見ると、道路の奥に工場がたくさん並ぶ。ここは八幡工業団地の西端だった。
帰りは予定どほり横川駅まで乗った。今から今から二十年ほど前に横川駅まで来て、駅前通りをすぐ曲がった道路を少し歩いて、寂れた商店街に驚いた。新幹線が開通し横川駅が終端駅になった結果だった。
今回は、駅前をすぐ左折した。観光案内か土産物店があると標識があるためだ。軽井沢へのバス乗り場を見た。1日7往復で、鉄道の代替にしては寂れてゐる。三陸海岸のBRTとは大違ひだ。
鉄道文化むらは火曜で定休日だ。仮に開園の日でも入園はしなかった。私は鉄オタではないから、さいたま市にある鉄道博物館にも行ったことがない。貨車の車掌車があるので、鉄道文化むらの外からこれだけを見た。ペンキを塗り替へた際に、全般検査と重要部検査の年月と工場名、配属の鉄道管理局名と常備駅名を示す略号、蓄電池に付けられた客貨車区の検査年月がすべて黒で上書きされた。残念なことだ。
廃止した線路の反対側の国道は、観光バスの駐車場やレストランなど繁盛してゐた。20年前は気付かなかったが、まだ無かったのではないだらうか。
そのまま寂れた商店街に抜けた。二十年前の記憶が無ければ寂れた商店街とは思はなかっただらう。古家が並ぶ街に変化した。駅前通りに戻り、おぎのや資料館を見学して、高崎行きの電車に乗った。
二十年後に、三たび来ることがあるだらうか。そのとき私は84歳だ。(終)

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