千三百九十一 和光の新寺院で昼食献膳、中板橋の経典学習会
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十一月二十四日(日)
本日は、信徒の中心的役割の方など11月にお誕生日を迎へる数名のお祝ひを兼ねた比丘への昼食献膳があった。私にもお声を掛けて頂いた。
オバササヤドーはミャンマーに帰国中で、世界平和パゴダの年長ではないほうのサヤドーと、ミャンマーのヘーホーにあるオバササヤドーのお寺から一番弟子が来られた。オバササヤドーのお寺はヤンゴンのほかにシャン州のヘーホーにもあることを始めて知った。
日本人は私を含む四名と、ニャーヌッタラサヤドーのミャンマー人向け指導会に参加する一人が参加した。この人は独学でミャンマー語を習得したらしく、サンガ誌に英語を翻訳したものも書く方ださうだ。
四名のうち二名は、オバササヤドーのミャンマー語教室に参加する。平日の午後六時からなので、私は参加できない。
比丘の食事のあと、我々も頂いた。参加者は全部で三十名くらいだった。量がたくさんあり、残るともったいないので、かなり食べた。
このあと我々四名は経典学習会に参加するため、中板橋に移動した。ミャンマー語が堪能な方もお誘ひしたのだが、ミャンマーの人たちといっしょに残った。

十一月二十五日(月)
経典学習会は一週間延期になり、場所も和光から中板橋になったため、参加者が最初は我々四人だけだった。ダンマパダ158は
先に自分を正しく整へて、次に他人に教へよ。さうすれば、賢い人が煩はされて悩むことが無いだらう

註釈は
ウパナンダ長老は説法が上手だった。しかしワサのとき衣の受け取りが四枚の寺ですごし、一枚、二枚、三枚の寺には自分の物をわざと放置し、それを回収に行き衣も受け取った。
二人の若い比丘が重衣、上衣、下衣の分配でもめて、ウパナンダ長老に仲裁を頼んだ。ウパナンダは二人に上衣と下衣を渡し、自分が高価な重衣を受け取った。
二人の若い比丘は不満なのでブッダに報告した。ブッダは、さきほどの偈を唱へた。二人の比丘は預流果になった。

私のメモは
ウパナンダ長老はサーリプッタ。プッタは子供の意味。二人の比丘は過去にカワウソ、ウパナンダはジャッカル。二匹のカワウソが魚を捕り、分けることができなかった。


ダンマパダ158は
みずから悪をなすとみずから汚れ、みずから悪をなさないならみずから清まる。清いのも清くないのも各自のことがらで、人は他人を清くできない。

註釈は
在家の弟子スラカラは、ウポサタの日に戒律を守り、一晩中説法を聴いて祇園精舎で過ごした。朝早く、近くの池で顔を洗ふと盗賊が束を投げた。所有者は彼を犯人と思ひ叩いたが、近くで水を汲む少女が犯人ではないと言って、スラカラは解放された。
ブッダは「少女が証言しただけではなく、無実だから解放された。悪をする者は地獄に行き、善をする者はデーヴァの世界に生れるか、涅槃する」と言ひ、先ほどの偈を唱へた。

私のメモは
マハカラスッタに似た話がある。この経ではマハカラは殺されてしまふ。
「清いのも清くないのも各自のことがら」の別の意味は「清浄と不浄は別のものである」
アクサラカマ(10不善業)は、1.殺生、2.不与取、3.邪欲、4.妄語、5.綺語、6.粗悪語、7.離間語、8.貪欲、9.瞋恚、10.邪見。このうち1から3が身業、4から7が口業、8から10が意業。
逆の不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語、不貧、不瞋、正見もある。
以上の二つはミャンマー人が知ってゐる。しかし以下は知らない人が多い。
施(dāna)、戒(sīla)、修習(bhāvanā)、恭敬(apacāyana)、作務(veyyāvacca)、所得の施(pattidāna)、所得の随喜(pattānumodana)、聞法(dhammassavana)、説法(dhammadesanā)、見直業(diṭṭhijukamma)。
所得の施は回向のことで、ミャンマー語だとアミャー。

アミャー三唱とサードゥ三唱について質問したところ
ミャンマー語とパーリ語の違ひのほかに、アミャーは六番目、サードゥは七番目。

今回は途中から、初めての女性が一人加はった。サヤレーの合宿関係者で、打合せの日時をすり合はせてゐた。経典学習会ののちに、一階の集会所兼調理場で、お昼の残りをいただいた。中板橋は和光とは別の催しがあり、トゥミンガラ比丘に食事を差し上げたのだらう。こちらも残すともったいないので、出されたご飯は全部食べた。野菜、肉、豆なども食べて、これ以上は無理と云ふところで食べ終へた。
ところが、デザートのお菓子(マンゴー、バナナなどを加工)がおいしいから食べたほうがいいと云ふので食べた。お腹いっぱいに食べられることは幸せだ。この幸せは地球温暖化と引き換へだが。とは云へ作ったものはもったいないので、食べるやうにしてゐる。
モービの瞑想僧院では、修行者はクティに持って行って食べるが、余ったものは周囲に捨てるやう云はれるさうだ。出家者に食べ物を献呈することはご利益があるとする信者の真心だ。日本人で出家した人たちは、その真心を裏切ってはいけない。
比丘は食べ過ぎで、太ってしまふと云ふ話も出た。食事を比丘に献膳するのは、功徳を積むためだ。それが判るから比丘も無理に食べられるのかも知れない。(終)

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