千三百九十 八割賛成(森田善明「戦国10大合戦の大ウソ」)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
十一月十七日(日)厳島の戦ひ
森田善明さんの著書「戦国10大合戦の大ウソ」は優れた内容だ。それなのに評判が芳しくない理由を、インターネットで調べた。するとこの本に書かれた基本部分は、既に研究者により明らかにされてゐる。それを引用し、これ以外を森田さんが追加したものの根拠が無い。これが理由ださうだ。まづは厳島の合戦だ。
通説は、毛利元就が陶晴賢軍を厳島に誘き出し敗北させた。これに対し森田さんは、山室恭子さんの、毛利側に感状がない、と云ふ話を元に、来島水軍の加勢を得た毛利が制海権を制し、来島衆が上陸とともに陶晴賢軍は戦はず西の山に逃げたとする。ここまでは古文書にあるが、これだけでいいのか。
西の山に逃げた陶晴賢軍は制海権がないから飲み水と食糧不足で降参したのか、内部から裏切りが続出したのか。そこまで調べないといけない。調べても判らないなら、降参か裏切りだらうと想像と断った上で書かなくてはいけない。この書籍は、来島衆の上陸で話が終るから、読者は半信半疑になる。

十一月十八日(月)桶狭間の戦ひ
藤本正行さんが1982年に、織田信長が迂回して今川軍を奇襲した話は作り話だと明らかにした。それは小瀬甫庵の小説を真実と勘違ひしたからで、「信長公記」こそ正しいことを明らかにした。
「信長公記」によると、信長が今川側の鳴海城の周りに五つの砦を築いた。森田善明「戦国10大合戦の大ウソ」は今川の軍勢を全部で二万人、織田は一万七千人。しかし織田は重臣たちと不仲で、動員できるのは仮に半分として八千六百人とした。信長は二千を率いて
今川の前衛部隊が婦人する山際まで前進するのだが、折しも、ここで、激しい通り雨が降る。(中略)攻撃を開始したのは、その豪雨が通りすぎた直後のことであった。

ここまでは問題ない。ところが
ここで崩れたのは、今川の前衛部隊であった。(中略)敵がうち捨てた弓、槍、鉄砲、幟、指物の散乱する戦場を駆けるうち(中略)遺留品のなかに、義元の塗り輿(ごし)を発見するのである。(中略)織田勢は目標を定め、東に向かってかかってゆきました。

この書籍の評判が悪いとすれば、このやうに考へられない状況設定をするからだ。前衛部隊が敗走した。その中に今川義元の塗り輿があるはずがない。前衛部隊が敗走しても、二千で今川の本体に敵ふはずがない。

十一月十九日(火)謙信の関東侵攻
上杉謙信は、正義のためなら得にならないことでも実行したと云はれる。それに対し、この本は防衛上の問題を改善するため、とする。これは同感だ。
謙信は短気なため、関東を支配下に置いても越後に帰国すると反乱したとする説があるか、この本はそれを採用せず、帰国すると北条と武田が反攻を開始したからとする。これも同感だ。
謙信が関東に侵攻すると関東は謙信になびき、帰国すると北条と武田が反攻する。毎年これを繰り返し、それは八回に及ぶ。私は、川中島に連動した攻防戦と捉へたが、この本は乱取りだとする。乱取りとは敵地の物や人を略奪することで、今から見るとひどい話だが、この当時は普通に行はれた。人を略奪しても有償で返還した。これについて藤木久志さんの説を引用し
農閑期になると、謙信は豪雪を天然のバリケードにし、関東管領の大看板を掲げて戦争を正当化し(中略)収穫を終えたばかりの雪もない関東では、かりに補給が絶えても何とか食いつなぎ、乱取りもそこそこの稼ぎになった。

この説は今まで知らなかった。なるほど乱取りがあるから、毎年出兵しても損はしなかった。しかしこの説には弱点もある。毎年繰り返せば、関東だって対策を立てるはずだ。やはり川中島を含めた攻防戦であり、しかし乱取りで損はしなかった、あたりが正解ではないか。この本では
関東侵攻は「冬の出稼ぎ」

と見出しを付けてゐる。関東侵攻は永禄三年に始まるが、永禄元年に越後はかんばつ、翌年は長雨で洪水。永禄三年は食糧が不足し、謙信は商人の課税を五年間免除し、農民も洪水の被害に応じて年貢を1/3から全額免除した。

十一月二十日(水)川中島の戦ひ
川中島の戦ひの通説は、昔から半信半疑だった。きつつき戦法なんかで上杉が反対側に出て行くはずがない。上杉が本体を攻めても武田の別動隊が来ることは予想できたはずだ。この本の仮説は、これらを解決してくれた。
妻女山の近くは武田の砦が幾つもあるから、上杉が布陣するはずがないと云ふ。次に、武田の戦死者は弟の信繁を始め、一族、譜代の重臣が多い。このことからこの本は、信濃の武将は信玄の動員令を無視し、しかし武田方の小山田衆が上杉軍に側面攻撃を掛け、それが功を奏したので信濃勢が武田に加勢したと推定する。この本自体が、想像に頼ったと認めてゐる。
今回は珍しく、意見の相違がなかった。

十一月二十一日(木)信長の美濃攻略
信長は美濃を攻めては失敗した。しかし小牧城を築いて清州から移転してからは、斎藤側の七つの城を攻略した。そのほとんどが内通、戦意喪失だったことについて、この本は小牧城へは城下町ごと移転したため、不況対策になり、一方の美濃では欠落(かけおち、借金の農民が逃げる)、退転(たいてん、農地が荒れる)が続出したと云ふ。
信長は、ほとんど戦らしい戦をせずに美濃一国を手に入れた。

その場合、信長の収入源が何かを調べると、更によかった。

十一月二十二日(金)信玄の西上戦
武田信玄は、三方ヶ原の勝利と野田城開城のあと、急遽北転し途中で亡くなった。このことについて、この本は、家康軍を叩いたあと岩村城にゐる武田軍の別動隊と合流し美濃へ向かふ作戦だったとする。
最初に読んだときは、なるほどと思ったが、野田城を攻めたあと、そのまま岐阜を目指したほうが早くないか。岩村城の別動隊と合流する説は、無理がある。
余談だが、信玄が重病になってもこのまま美濃を目指すべきだった。負ける軍隊は、好機が幾らでもあると勘違ひする。大東亜戦争で日本が負けたのも、それが原因だ。

十一月二十三日(土)長篠の戦ひ
まづ武田に騎馬隊は無かったと云ふ。これはそのとほりで、移動に馬を用ゐても戦闘には使はなかっただらう。長篠の戦ひに、織田側は三千丁の鉄砲は無く、千丁だった。勝因は鉄砲ではなく織田側の防御施設だった。これらも正しいだらう。
問題は武田側の、開戦前の状況判断と、途中結果分析で、なぜ勝頼は戦闘を一旦中止しなかったのか。勝頼の力量が劣るのであらう。
この本は、このあと賤ケ岳の戦ひ、小田原合戦、関ヶ原の戦ひと続くが、これらは渇愛する。(終)

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