千三百七十 一旦はページ読みで済ませたが、有益な情報を紹介(仏教の知恵 禅の世界)
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
九月二十八日(土)
大法輪閣出版のこの書籍は、最初を少し読んだだけで止めようと思った。しかし愛知学院大学禅研究所が編者なので、我慢して読んでみると、役立つ情報もあるので、それを紹介したい。
最初に読むのを止めようとした理由は、一番目に講演した河合隼雄さんで、どこかで聞いたことがある名前だ。この人は
臨床心理学が私の専門です。(中略)ですから、私は本来禅にも仏教にも関係がない。「先生は禅をやられますか」と聞かれると、「禅は全然知りません」とか、「悪はしてますけど、禅はだめです」とか言ってごまかしていたんです。

河合さんが、禅や仏道と無関係のときに「禅は全然知りません」と答へるのは事実だから問題ない。しかし「悪はしてますけど、禅はだめです」は何たる言ひ草か。こんな他人を馬鹿にした発言が出る理由は、その前の「先生は禅をやられますか」にある。この男は、自分を有名人だと勘違ひしてしまった。
「二十一世紀日本の構想懇談会」をやったのですが

これで判った。河合はあの英語第二公用語で悪名高い懇談会の座長だった。この場合は、自分が有名だと勘違ひではなく、悪名高いが正解だ。当ホームページは最初、国際派を自任してゐたが、突然英語第二公用語が現れて反米路線に転じた。その後、消費税増税反対運動をやり、今は安倍のお友だち依怙贔屓不公平政策に反対してゐる。つまり河合は当ホームページの初代天敵だ。
次にユングについて
本当の私というのは、もっと大きな計り知れない(中略)存在であって、その上に、自我というものがちょっと乗っているだけだ。その非常に大きな(中略)ものを、日本語に訳しておきますが、「自己」と呼ぼうとユングは言います。
(14)
ここまでは問題ない。
そのような自己のことなら、東洋人の方がはるかによく(中略)昔から知り過ぎているので、自我を確立せずに、心の豊かさと物質的貧困の中に生きている。反対に、西洋人は物質的豊かさの中で自己を知らずに生きている。
(15)
ここまでで、問題点が二つある。東洋人とは東アジアのことか、インドのことか、イスラムを含むのか。私は東アジアとインドだと思ふが、河合は漠然と東洋で済ませた。そんないい加減な知能だから、英語第二公用語なる世界の笑ひ物となる駄論を吐いた。
次に、昔から知り過ぎたと云ふが、それなら適正水準はどこなのか。
次の節で、鈴木大拙の禅と中国の『易経』について、ユングが入門や序文を書いた話が出てくるから、日本と中国が東洋に入るのは確実だが、これだと漢字圏、儒教道教神道圏、大乗圏で、ヒンドゥー圏、上座圏が入るか入らないかやはり不明だ。
西洋人はもっと東洋に学ぶべきだと言ったんです。(中略)でも、ヨーロッパの人々はほとんど聞き入れませんでした。(中略)それに非常な衝撃を与えたのがベトナム戦争です。

ベトナム戦争後に、瞑想や禅に興味を持つ人が増えたのは事実だ。しかしベトナム戦争を頂点にポルポト、文化大革命の真実、ソ連の官僚主義と自由抑圧主義が明らかになり、共産主義国は激減した。だからベトナム戦争後は余計に欧米こそ正しいとなったではないか。河合はどこを見てゐるのか。
ユングが1930年頃にアメリカを訪ねてすばらしい顔の先住民の老人に会った。
当時のアメリカ人達が「あんな無知な奴らはいない」と馬鹿にしていたアメリカ・インディアンに会って(中略)その老人に「あなたは素晴らしい顔をしているけど、いったいどういう生き方をしているのか。(以下略)」と聞いてみた。すると、その老人が答えて言うには、「太陽が東から昇って、西に沈んで行く。その太陽の運行は、自分達が祈りによって支えている(以下略)」
(16)
河合はだからどうしろと云ふのか。我々がアメリカ先住民と同じになるとよいのか。河合はユングの著作から突拍子もないことを羅列するだけで、背後の考察ができてゐない。
あと1930年頃は、アメリカ先住民の人たちは、文化を保ってゐた。今はどうなのかが心配だ。

九月二十九日(日)
佐々木閑さんの
インドもそれからスリランカも(中略)パキスタン、アフガニスタン、あの辺りは、みんなイギリスの植民地だったわけです。イギリスという国は大変ずる賢い国で、(中略)コストをかけずに沢山儲けるということです。(中略)どういう方策を取ったかというと、イギリスの(中略)一流のエリートの、様々な種類の学者をイギリスの本国の十倍ぐらいの給料を払ってインドへ送るんです。高官として。そしていろいろな儲けの道を探っていったわけです。(中略)地質学者、植物学者、動物学者、言語学者、(中略)見事にイギリスは儲かるものをいっぱい見つけた。
(44)
欧米の植民地支配を批判するときは、このくらいすべきだ。次にインドの言葉がヨーロッパと同じ語族について
ヨーロッパの人たちは、「一つの民族が何千年もかけてヨーロッパからインドまで広がったんですね」とは言わなかったんです。(中略)時代は、一八〇〇年代です。(中略)聖書に書かれた、アダムとイブから始まる、あの創世記が、世界の歴史なんです。
(51)

十月五日(土)
蓑輪顕量さんは
止は、観察の対象(業処 パーリ語略)が一つに限定され、他のものに心の働きが移った時に、最初のものに戻るという特徴が見出されます。(中略)ここでも心の働きの一つ一つに「気づく」ことがポイントになります。
(170)
ここまで賛成だ。続いて
観は、観察の対象が一つに限定されず複数のものとなり、恒に身体が感じ取っているものを気づき続けるところに特徴があります。目指されているものは、受→想→行→識の一連の心の反応を途中で気づいて、心が一気呵成に反応して、さまざまな働きを生じさせることから脱却させることです。ここでも「気づく」ことはポイントになります。
(171)
私は苦、無常、無我に気づくことが観だと考へるから多少の相違があるが、苦、無常、無我に気づくには四念処経に書かれた内容が必要だから、同意できる。蓑輪さんもこのあと四念処経を引用する。そして入息出息観が特に重要だとして
実際の動き  名前付け
入る     「入る」
出る     「出る」
(中略)
<入る     「入る」> が一つのセット
ここで、一つのセットと申しましたが、前のものは「捕まえられるもの」であり、後のものは「捕まえるもの」です。この両者は、実際の動きが色(ru-pa)と呼ばれ、捕まえている心の動きの方は名(na-ma)と呼ばれます。
(173)
ここまでは同感だ。しかし
ここでは、呼吸を気づき続けていて、ただ一つの行為と思っていたものが二つに分離されることになります。このように見えたとき、すなわち気がつく智慧が名色分離智と呼ばれます。
(173)
ここは正しいか判らない。呼吸するときは色しかなく、入息出息観をするから二つになるからだ。心の働きについて
外界の刺激(色ru-pa)->その刺激を受け止める(受vedana-)->受け止められた情報としてのイメージ(想、以下パーリ語略)->そのイメージを作り為そうとする働き(行)->そのイメージを「~である」と判断する(識)
(176)
五蘊は、生命が五つに分解できることを表すと書かれた書物が多い。しかし外界の刺激を(色ru-pa)とする刺激を処理する流れこそ五蘊とする説に、私も賛成だ。とはいへ
通常では、受->想->行->識->感情>と連続する一連の反応を、識のところでストップさせることができるようになります。
(176)
私自身は、感情は識に含まれると思ってゐたが、五蘊は刺激を処理する一連の流れとすると、これでよいことになる。
原始仏教に頻出する五蘊説は、実は瞑想との関わりの中で登場したものであることが分かります。
(176)
これも賛成だ。次の話題に入り
現在、ミャンマーにおいて瞑想センターを持って活躍しているところに四大流派が存在しています。
(180)
として大きくマハシー系とレディー系に分かれ、マハシーは
瞑想の中心は念住の観察(satipattha-na vippasana)です。それは心に生起する思いや肉体に感じられる現象を逐一観察することに主眼が置かれています。伝統的な四念処(座っていて呼吸の観察、但し、おなかの膨らみ凹みで観察する、から、心に生じる働きに気づき続ける、体で感じる感覚を気づき続ける、など)を実習します。この集団では、止(samatha)としての瞑想(入息出息など一つのもののみを観察すること)はあまり行っていないところに特徴があります。
その理由は、一度心の働きを静めてしまうと、対象に心を向け、気づき続けるのに改めて努力をしなければならなくなってしまうからだそうです。
(181)
蓑輪さんは、一つを観察するのが止、複数を観察するのが観とするが、それでよいのか。四念処経はすべてを同時に行ふのではなく、どれかを行ふ。四念処経は止になってしまふ。
次に、レディー系はレディーサヤドーの系列で、モコックサヤドーのセンターは
特徴は自我(self)への執着に対処することを大切にしていることと、修行に入る前に輪廻の説明をしていることにあります。
(182)
三番目にウバキンと云ふレディサヤドーの孫弟子に当たる人のセンターを紹介するが、在家なので
も 止と観との双方を、ともに重視するところにあります。(中略)弟子の一人にゴーエンカ(Goenka)氏がいます。
(182)
に留め、四番目はスンルンサヤドーの
激しく音を立てながら出息と入息とを繰り返し(中略)(四十五分)、合図に従って激しい呼吸を止め、体全体において発生する感覚(痛み)を観察する(四十五分)
(184)
四つ以外に、現在のミャンマーで著名な僧侶としてパオサヤドーを挙げる。
現在、パオ比丘は東南アジア全域に知られる比丘となっています。(以下略)
(1)安般念から色、無色禅へ
(2)安般念から観禅へ
という二つの方向性があるというものです。
(185)

次に、タイ国では
瞑想はインド仏教以来の伝統に則っていますが、ミャンマーのマハシーの影響が強く認められます。
(186)
としてプラ・ダンマ・ティーララッチ比丘を挙げる。
梵天界に至る道として、四十の止の瞑想が有り、涅槃に至る道として、観(vipassana-)の実習が存在すると主張しました。(中略)観の内容は(中略)(四念処観)が基本ですが、心を一つの対象に結びつけている点(心一境性)は止と変わりません。しかし、観察の中で名色(na-maru-pa)に分離することが大事だと説くところが、止と異なります。
(187)
具体的には、お腹の膨らみ凹み、立ってゐるときは立ってゐると気付く、歩くときは右足左足と気付く、を観では二つ以上行ひ、しかし一日に二つ以上上げてはいけないさうだ。
次にタンガマーイ(意味は法身、真我)寺院について、蓑輪さんはワットパクナムのプラモンコン・テープムニー師(ソット・チャンタソロー師)を創始者とする。ソット師は1959年に亡くなり、タンガマーイと直接は関係がないが、ソット師の瞑想法を伝へる女性修行者を介して大学生グループが創設したので、瞑想法としては蓑輪さんで正しい。水晶、入息出息、心の中でサンマアラハンと唱へる瞑想のほか
九段階(十八身体)の内なる身体を観察する瞑想もあります。(中略)涅槃処、タンマガーイの存在領域・功徳・守護力に繋がる瞑想とも言われます。
(189)
その後、応用段階に入り
護符の瞑想、他界を探訪する、守護力が備わるとか、多少、民間信仰的なところも存在します。これは、タンマガーイの創設者の方が、二十世紀初頭までは存在していた民間の遊行僧の流れを汲んでいることを物語るようです。一九〇二年サンガ統治法により、経典学習の画一化、僧侶の定住化、全国寺院の組織化が行われ、彼らは都市部に定着させられましたが、その伝統が一部残ったようです。
(190)
さて
瞑想する僧侶のもたらす守護力が大事にされるところには、興味を持たされますが、現在では道徳性を帯びた正しい力が守護力の源泉であり、個人内在の守護力に変容していて、他界探訪は言わなくなったようです。
(190)
結論として
民衆信仰が合理的な上座仏教の中に取り入れられたものがタンガマーイであるといえそうです。都市のミドルクラスの運動であり、保守的でかつ非合理な部分もあったところが民衆に受け入れられたポイントではないかと思われます。
(191)
都市の中間層なのでタンガマーイが合理的だと思ったが、上座が合理的でタンガマーイが遊行僧の流れとするのは、興味深い。
瞑想の原則から見れば、光を観察の対象とするのは(中略)タンマユットニカーイ・マハーニカイなどのタイの正統的伝統派から寄せられる批判天であります。「止(samatha)ばかりで観(vipassana-)がない」という批判は、光明を見るという一つのことに心を集中させていますので、もっともかと思われます。また、現在の指導者はこのような批判を受け、伝統的な観の瞑想も指導するように変化してきています。
(191)
このあと蓑輪さんは中国で、唐代の公案が、宋代には「話頭」になり
話頭は、言葉の上でやりくりをするのではなく(中略)心を落ち着かせる道具であり、止(SAMATHA)の工夫の一つであったことが分かるのです。
(195)
禅と云ふと、矛盾する難題に理屈をこね回す印象が強く、曹洞禅は黙照禅だと言ってみても、それは坐禅中の話であって、机の前では昔の禅僧の問答を引用する。臨済宗と曹洞宗は唐代のやり方が今も続くのかも知れない。結論として
仏教の瞑想は、実はパーリ聖典に説かれる止と観の両者を出るものではないと思います。(中略)東アジア世界独特の要素が禅の中に付加されて認められることは間違いないと思いますが、その基本的なところは、やはり止と観を出るものではないと思います。
(198)
蓑輪さんの慧眼である。

十月六日(日)
玄侑宗久さんの
神道の(中略)神社というのも道教用語。
(239)
日本の神々は、仏道とともに入ったインドの神々と同じだと、私は考へてきた。一方で中国の道教は、日本の神道と似てゐる。これも事実だ。仏道は中国化されたものが日本に入ったのだから、それが原因かも知れない。
神秀の(中略)は北宗禅、儒教的な禅です。戒律を重視する戒律禅というものになります。これは、日本には伝わってきておりません。韓国(中略)曹溪宗って言うんですが、あの人たちは北宗禅です。
(251)
私は今まで、曹渓宗は南宗禅だと二十五年間思ってゐた。

木村清孝さんの
禅宗というのは、釈尊の瞑想を眼目としながら、とくに中国の道家思想の影響を強く受けて出来上がってきたひとつの仏教の伝統でする。
(270)
禅宗の特異性は達磨大師に由来すると思ってきたし、中国的なのは儒教の影響と思ってきたが、なるほど道家だと始めて知った。

尾崎正善さんの
警策は、道元禅師(中略)瑩山禅師も使われてない。警策が入ってくるのは、江戸期、黄檗宗からですね。
(320)
これは驚きだが、云はれて見れば、道元禅師や瑩山禅師に警策は似合はない。とは云へ、大勢力の曹洞宗が極めて少数派の黄檗宗の影響を受けたとは、俄かに信じがたい。永平寺、総持寺と、対立する二つの大本山がそろって取り入れることも信じがたい。
今は一斉に、抽解鐘が鳴ると経行しますけども、当時は(中略)自由に自分で単を降りて、経行廊下に出て経行するというのが、昔の坐禅堂の進退であります。
(320)
これも一斉に変はるとは信じがたい。
木魚も黄檗からの影響です。
(322)
私は銅鑼のほうが黄檗の影響だと思ふ。それより木魚は日本では他宗でも用ゐるが、それとの関係はどうなのか。明治二十二年に
護法諸天、護法聖者、日本国内大小神祇は残りますが、例えば天照大神・稲荷大明神等の神が全部なくなってしまいます。
(325)
昭和二十五年には
「一仏両祖」(中略)が確定するのはこの段階なのです。(中略)日本国内大小神祇という神道系の考え方をみんな削除してしまうということになるのです。
(326)

中尾良信さんは
「明全の嫡嗣」とあるからといって、道元が栄西の兼修禅、つまり密禅併修の禅風を継承したわけではない。しかし、少なくとも明全は顕・密・戒・禅を兼ね修したのであり(以下略)
(362)

竹村牧男さんは永平広録の上堂を引用し
端身正坐を先とすべし。然して後、調息、致心す。もしこれ小乗ならば、元より二門あり。いわゆる数息と不浄なり。小乗の人は、数息をもって調息となす。然而(しか)れども、仏祖の弁道は永く小乗と異なれり。仏祖曰く、「(前略)二乗の自調の行を作すことなかれ」と。その二乗とは、如今(いま)世に流布する四分律宗、俱舎宗等の宗、これなり。大乗にまた調息の法あり。いわゆる、この息は長く、この息は短しと知る。乃ち大乗の調息の法なり。(中略)百丈曰く、「吾が宗とするところは、大小乗に局るにあらず、大小乗に異なるにあらず(以下略)」
(433)
竹村さんは別の上堂も引用し、そこには龍樹の言葉が書かれ上座大乗中立ではないので割愛する。百丈と道元の違ひか。道元も
大小を脱落す
(434)
と云ったのだが、竹村さんはこれを重視しなかった。(終)

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