百三十六、元「自民、社会、民社の三党」対「悪魔の思想リベラル」(その三)
九月十五日(水)「スターバックスとクアーズビール」
「見えないアメリカ、保守とリベラルの間」という講談社の本によると、アメリカではリベラルと保守では生活嗜好が異なる。リベラルはスターバックス人、保守はクアーズビール人とも言われる。リベラルはデリカデッセンやマクドラルドの安いコーヒーではなく、割高のスターバックスを飲みながら「ニューヨークタイムズ」を読む。世俗派の人たちのライフスタイルである。二種類の人がいて、コーヒーに数倍の値段を払える裕福な人か、新聞を粋な雰囲気で読みたい知的な人だそうだ。
一方のクアーズビールは、ケバケバしいネオンやアメリカンフットボールのテレビ中継が流れるスポーツバーでフライドチキンやポテトチップを食べながら飲む。値段の安いビールならミラーやバドワイザーでもよい。アメリカではビールは仕事帰りのブルーカラー労働者の飲み物だそうだ。
私はクアーズビール派である。サンフランシスコ長期出張中はバドワイザーかクアーズがスーパーマーケットで一番安いから買っていた。別の取引先のソフト会社がデンバーにもあり、そこにも出張した。クアーズビールの本社はデンバーなのでクアーズビールを飲み取引先の人たちとスポーツバーにも行った。これだけでも典型的なクアーズ派だが、そういう偶然の関係を無視しても、エリート意識を振りかざす新自由主義のリベラルより、庶民的な保守のほうが合っている。
九月十六日(木)「アメリカの真似をしてはいけない」
アメリカはまだ安定期に入っていない。土地と資源を無制限に浪費できる社会である。地球全体で考えればそのようなことは許されないがアメリカ国内の現状はそうである。だから政治も安定期に入っていない。そこが宗教改革から産業革命、社会主義運動、帝国主義を経て二大政党に落ち着いた欧州と異なる。だからアメリカの真似をしてはいけない。仙石、前原、枝野といった連中はそこを勘違いしている。
九月十八日(土)「アメリカ論評本と新聞の海外駐在員の陥りやすい誤り」
先日紹介した書籍はそれほどいい内容ではない。その理由は、アメリカの友人がこう言った、こういうことが起こった。そういうことを羅列する根底に拝米がある。そしてたまたま起きたことをアメリカ全体の特徴と勘違いする。例えば
- いちばんやってはいけないのが、黒人英語や黒人のラップを表面的に真似ることである。きわめて「リベラル」で、マイノリティ問題にも率先して汗を流してきた民主党のスタッフの仲間が、食事の席で黒人の喋り方を真似して、目の前の黒人スタッフと一触即発になったことがある。
- べつの民主党の熱心な活動家の友人に、テキサス出身でニューヨーク在住の女性がいる。国際経験も豊かでアフリカにボランティアで長期滞在していた。(中略)叔父はクランのメンバーで(中略)こういう家系のなかで私だけは違うということを繰り返し強調する。
これらの話を紹介したあとに結論らしい結論を出していない。アメリカで起こったことを羅列すればいいと考えるのは拝米である。
更に大手新聞の駐在員の場合は、これらの話を羅列して英語が話せるんだということを自慢しようとする傾向にある。だからやたらと友人がこう言った、ああ言ったという話が多くなる。向こうは単に変な外国人としか思ってはいないだろうが。
日本国内で考えればわかる。友人がこう言ったということは記事にするほどの内容ではない。
あとこの本の問題点はシングルイシューだとか変なカタカナ語を用いることだ。変なカタカナ語を用いる人は教養人とは言えない。
九月十九日(日)「もう一人の小沢氏」
小沢鋭仁氏が「ニューリベラル国家論」という本を十六年前に執筆している。鋭仁氏は今回の代表選では投票先を明らかにせず新内閣では環境相に再任されなかった。菅陣営からは小沢寄りと見られたのであろう。
鋭仁氏はリベラルについて当ホームページとは逆の解釈をしている。しかし十六年前と今とでは状況が異なっている。だから私と鋭仁氏の考えはほとんど同じである。鋭仁氏はその前年の細川内閣誕生で自民党長期政権に終止符を打ったことを踏まえて
- これまでは、自由主義と社会主義という大きな対立があった。しかし(中略)ソ連消滅と社会主義圏の崩壊により、その対立はなくなった。
- 五五年体制が示してきた自民党と社会党の対立構図は、まさにこの国際的対立を国内政治に反映したものであった。
- そうなると、いまわれわれの目の前にあるのは「自由な社会」という一つの目標となってしまった。しかしその自由な社会というものを運営していくにあたって、一方に新保守主義という理念があり、もう一方にニューリベラリズムという理念があると考えられる。
自民党と社会党の対立が、国際的対立を国内に持ち込んだだけという指摘は正しい。だからソ連崩壊後に社会党が消滅したのも当然であった。
- 新保守主義は、八〇年代にレーガン、サッチャー、中曽根時代を通じて全盛となった。その考え方の基本は、政治・行政の市場への介入をできるだけ排除し、民間の活力を最大限に生かしていくこととされている。
- ニューリベラリズムは、依然として公共政策の役割は大きいとし、福祉・環境・人権等々の分野においての公共政策の意義を、積極的に評価するものである。
- 新生党や自民党の渡辺美智雄氏らのグループが新保守グループ、社会党、民社党、新党さきがけがリベラル・グループという分布になる。
- 日本新党や公明党もかつてはリベラルであったが、最近の動きを見ると新保守グループに合同しようとしているように見える。
ここで問題点が一つ現れる。公共政策の役割は大きくても、そのまま続けたら財政が破綻する。財政を重視したら多くの国民が切り捨てられる。市場主義か公共政策かという選択しかないと行き詰る。ここに強者の負担を多くして再配分の仕組みが必要である。
九月二十日(月)「小沢鋭仁氏の新自由主義」
だから鋭仁氏も、自由主義とは強い個人を前提としたリベラリズムであるとして次のように述べている。
- 新保守主義が「自己責任」をキーワードにしていることに対し、ニューリベラリズムは「いたわりの心」が基本になっているとも言える。
ここまでは全く同感である。しかし
- さらに私が「ニュー」という言葉を付け加えたのは、(中略)いままでのいわゆる「リベラル」は、アメリカの民主党がモデルとなっていて、どちらかというと、民主党がモデルとなっていて、どちらかというと、民主党が「大きな政府」、共和党が「小さな政府」という位置づけであった。
- その後、現在においては(アメリカでは)もはや「大きな政府」は明らかに国民のコンセンサスではなくなった。
- その意味で、われわれも「大きな政府」という考え方をとらない。そこに「新しい」自由主義、「ニューリベラル」と呼ぶ理由がある。
リベラルがアメリカ民主党の真似だったことが明らかになる。日本では自民党内進歩派、民主党、社民党がリベラルに飛びつき、自民党内保守派と「小さな政府」「大きな政府」という不毛の争いを繰り返し、失われた十六年となった。
- 日本人はComplainとClaimの違いがわからないと言われる。(中略)欧米人などは、自分で自分の義務を果たす代わりに、その権利を享受するためにClaimするのだという意識が強い。かつ、それに対して権利を主張するトレーニングは、幼いときからされている。ところが、日本人はそうではない。
日本人の中にクレームを苦情の意味で使う人が多い。しかしクレームは和製英語で原義とは意味が異なる。カタカナ英語は使ってはいけないという典型である。また日本人が幼いときから訓練されていないということは欠点ではない。逆に日本人が幼いときから訓練されていて欧米人がされていないものもある。十六年前は欧米の真似を完全にすれば日本はよくなる、という考えが強かった。だから小沢鋭仁氏がこのように著述したのはやむを得ない。
それより鋭仁氏の「いたわりの心」が基本になっているを高く評価したい。
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