百三十五、東南アジア人が商売繁盛できる日本に

平成二十二年
八月八日(日)「八王子のタイ仏教寺院」
武州多摩郡八王子(最近は地方自治体名に変な名前を付けることが多く歴史の評価にとうてい耐えきれないので、旧国名と郡名を用いている)のタイ仏教寺院で数ヶ月前にお祭りがあった。参拝者はほとんどが在日タイ人だが、少し前に日本人のタイ仏教僧の葬儀をここで行ったこともあって日本人も十名ほど参加した。
日本に住む中国人や韓国人が成功しているのに対して、東南アジアの人は生活するのがやっとという人が多い。東南アジア人が商売繁盛できる日本にするにはどうしたらよいかを考えよう。

八月九日(月)「食材は近在から」
食材は近在から仕入れるべきだ。地球温暖化を防ぐために遠くから運ぶことは許されない。だから日本人はまず日本食を食べるべきだ。
日本食に飽きたら中華料理や韓国料理や東南アジアの料理を食べてもよい。この地域とは昔から交流の歴史がある。
アメリカ風のファストフード店や西洋料理店は今の十分の一でよい。ああいうものを食べると地球は温暖化する。その分アジアに目を向けよう。

八月十日(火)「タイフェスティバル」
五月の十五日と十六日に、東京代々木公園でタイフェスティバルが開かれた。以前はタイフードフェスティバルと呼ばれていたそうでタイ料理が多数出店する。催し物広場だけでは足りずにNHKの前まで出店が連なる。すごい人出である。
今回のフェスティバルはたまたまタンマガーイ寺院のホームページを見ていたら、在日タイ大使館の依頼でタンマガーイも出展すると書かれていて知った。だからタンマガーイにも寄った。NHKのすぐ前、会場のはずれであった。僧侶にお話を伺った。
タンマガーイはタイの上座部仏教に属しながら独自の活動をしている。私は従来派のほうが好きだが、タイ国にあっては急増する中流階級の支持を集め、日本にあっては在日タイ人の心の支えとなっている。一度しか参拝していないが、また訪問したいものである。

八月十二日(木)「ラオスフェスティバル」
翌週の二十二日と二十三日には、同じく代々木公園でラオスフェスティバルが開かれた。タイ東北部の方言とラオス語はほとんど同じである。日本で言えば宮城県までが日本でその北は隣の国と考えれば分かりやすい。ラオスフェスティバルは出店も少なく来場者も見るには手ごろだった。
開会式典はラオス首相と日本の外務副大臣が舞台の左側に座り、秋篠宮様が右側に御臨席された。観客席は百人ほどで招待状が必要なため、我々は立って見ていた。観客席は半分しか埋まらなかった。私の位置からは舞台の左側しか見えないため、秋篠宮様がいらっしゃるとは知らずラオビールを呑みながら気楽に見ていた。これでは欧米帝国主義の手先と言われかねない。
なぜ欧米帝国主義の手先なのか。欧米は広大な植民地を支配することは諦めた。しかしソ連崩壊あたりから自分たちの文化を押し付けるようになった。宮様の前でビールを飲むことは欧米のマナーである。若い人たちは欧米のマナーを真似しないようにしてほしい。
ベトナム戦争のときはラオスでも親米政府とパテトラオ(ラオス愛国戦線)が内戦を繰り広げた。パテトラオの首相をこうして間近にお迎えして感慨深いものがある。ベトナムとラオスは共産主義で成功した数少ない例である。
ラオスが王制を廃止したのには事情がある。内戦で多数の犠牲者が出た以上、親米政府の国王が継続することは不可能だった。パテトラオ議長のスファヌボン殿下が新国王になることは可能だったが、一代限りの大統領を選んだ。退陣した旧国王への遠慮と双方の多数の犠牲者を思ってのことであろう。

八月十三日(金)「マレーシア」
二十年ほど前にマレーシア発成田行きの飛行機に乗ったとき、近くの席の若い女性がスカーフを着けていた。マレー人はイスラム教徒だから当然だが、他の乗客は誰も着けていなかった。乗客は日本人ばかりなのかも知れない。東京に着いてからスカーフをしていると目立つが是非スカーフを着けていてほしいと思った。イスラム教徒なのだから当然である。スカーフもマレーシアではカラフルである。リボンやぼうしと同じファッションの一部である。最近日本では数珠を手首に着けている人がいる。どの宗派なのか判らぬが良いことである。
フランスではスカーフの着用を法律で禁止している。イスラム教の国は対抗して洋服の着用を禁止したほうがいい。日本も洋服は気候に合わない。夏にズボンは暑すぎる。歩いていると汗でズボンが足に貼りつく。冬は背広の首の部分が寒すぎる。
ある野蛮人は首に縄を巻いている。あの縄は何のためにあるのだろうか。相手の首を絞めるためだろうか、などと考えてしまう。ちなみに野蛮人とは欧米人のことである。背広の首のところが開いているのは縄を他人に見せびらかすためかも知れない。未開な連中である。

八月十四日(土)「イスラムの国」
二十年ほど前にマレーシアはイスラエル製の製品や書物は持ち込み禁止だった。今でもたぶん同じであろう。
ニ年前のイスラエルによるガサ地区侵攻はひどいものだった。多数の民間人が犠牲になった。しかし日本国内の報道は欧米側の視点に立ったものばかりだった。イラク戦争ではアメリカは化学兵器を隠しているとして侵攻したが、実際には化学兵器はなかった。このときも日本国内の報道はアメリカ寄りのものばかりだった。
日本はもっとイスラム諸国の心情を理解すべきだ。昭和六十年あたりまで日本は欧米とは異なるということでイスラム諸国と友好関係にあった。石油ショックのときもアラブ諸国から特別に輸出してもらっていた。

八月十五日(日)「ミャンマー」
昨日は、来日中のミャンマー高僧の瞑想会に参加した。参加者は五十人ほどで在日ミャンマー人も七人くらい参加した。ミャンマーではうちわを寄進する習慣があるらしく、休憩の時間に近くのコンビニで買ったうちわを寄進する人や、そのうちわで僧侶のほうを扇ぎながら僧侶からお話を伺う人がいた。ミャンマーの昔からのうちわと比べて日本のうちわは小さいので、二つのうちわを片方の手でずらして同時に持ち扇ぐ人もいた。こういう風習に触れることができるのもこの瞑想会の特長である。
最後の質問の時間では、日本人の質問はミャンマー語に通訳して僧侶に取り次ぎ、ミャンマー人の質問は僧侶が直接答えた後で日本語に通訳してくれた。
ミャンマーは一八五二年に国土の半分がイギリスの植民地になり、その三十四年後には残りも併合させられ国が消滅した。一九四三年に日本軍がイギリスを破り独立するが戦後は再びイギリスの植民地に戻った。一九四七年にイギリスはインドから逃走し、翌年ミャンマーも独立を果たした。
一九六二年にネーウィンが軍事クーデターを起こす。しかしその後も日本とミャンマーの関係は良好だった。これは日本軍から訓練を受けたアウンサンやネーウィンが独立の中心だったため、日本の軍歌がミャンマーで歌い継がれていた事情がある。

八月十六日(月)「日本のマスコミが急変した」
ネーウィンの軍事クーデターは、仏教の国教化に反対するカレン族キリスト教徒軍の反乱のなかで起きた。戦前の軍隊はイギリスの命令下にカレン族やインド人移住者で占められていた。イギリスはカレン族のキリスト教徒化など分断策を取っていた。
クーデター後のネーウィン政権は日本とは親密だったが、長期独裁は経済の停滞を招き1988年に退陣した。しかしデモは収まらず二回目の軍事クーデターが起きた。その後も日本との関係は良好だったが、日本の新聞がこのころからさかんにミャンマー批判を繰り返すために、ミャンマー嫌いの日本人が増えた。これが一連の流れである。

ミャンマーは戦後の一時期を除いてずっと軍事政権で変化していない。日本だけが大きく変化した。ミャンマーで唯一変化したのは国名がビルマからミャンマーに変わったことだ。しかしビルマは口語表現でミャンマーは文語表現だそうだ。例えば日本は「にほん」「にっぽん」と二つの読み方があるが、お札に書かれているNIPPON GINKOをNIHON GINKOと修正した。その程度の変化である。
アメリカのテレビ局はミャンマーと呼ぶがイギリスはBurma(バーマ)のままである。戦後にカレン族が反乱したのはイギリスの分断統治が原因である。インドとパキスタンが争っているのも、スリランカの長かった内戦も、パレスチナ問題も、香港には国籍不明で永住権だけがあるインド出身者が多数いるのも、すべてイギリスの責任である。自分たちの責任は棚に上げてアジアを批判することは許されない。

地球温暖化に一番責任があるのはアメリカ、次いで欧州諸国である。一番良心的なのがミャンマーなど経済が大きくない国々である。

八月十七日(火)「在日東南アジア人が繁栄する日本に(その一)」
日本人のアジア蔑視は三島由紀夫の「暁の寺」に現れている。あの小説はタイへの蔑視がはなはだしい。三島由紀夫はあのようなエロ小説まがいのものしか書けなくなったので、悲観して事件を起こしただけではないのか。
明治維新のときまでは、日本はアジアの一員として暮らしていた。日本人はまず洋食を食べる機会を減らそう。その分日本食を食べ、飽きたらアジアの料理を食べよう。これがまず在日東南アジア人のためになる。

八月十八日(水)「在日東南アジア人が繁栄する日本に(その二)」
在日アジア人は程度の差はあっても日本語を話せる。この特質を生かせるかどうかで中流と下流の分水嶺になってしまう。これは十五年前に長期出張で滞在したサンフランシスコの在米日本人社会でも同じであった。
しかし貿易に英語を使うと日本語を使える東南アジア人が無駄になってしまう。これはアメリカ人でも同じである。日本語の得意な白人がアメリカには沢山いる。日本語を大学で選択する白人は日系人より熱心なので上手だ、という意見もあるくらいである。しかし多くは埋もれたままである。日本語を使える外国人の数は日本の国力である。彼らを有効利用し、より一層日本語を使える外国人を増やすべきだ。そのためにはアジア各国と共同し英語の使用を禁止すべきだ。
スリランカでなぜタミルゲリラとの内戦が長引いたかと言えば、英語が原因である。すべてのシンハラ人とタミル人に相手の言葉の学習を義務付ければ内戦は起こらなかった。ミャンマーのカレン族の反乱やそれに続く軍事クーデターも同様である。

八月十九日(木)「在日東南アジア人が繁栄する日本に(その三)」
日本で中国人や韓国人と比べて東南アジア人が活躍していない理由に漢字がある。まず漢字にはルビを振るべきだ。外国人日本語学習促進法という法律を作り、不特定多数に公開する文にはルビを付けることを義務付けるべきだ。
日本の電子機器メーカーはデジカメに似た小さな機械を作り、漢字を含む文章に向けてボタンを押すとひらがなで表示できるようにすべきだ。二年あれば開発できる。

八月二十日(金)「アジアの日本に」
中国、韓国、東南アジア人は外見は日本人と変わらない。しかし性格や風習は異なる。そこに反感が生まれることもある。私が小学生のときに父親が朝鮮半島出身で母親が日本人という同級生がいた。その子の家に遊びに行ったときに父親がすごい剣幕で子供にどなったことがある。子供と父親の目が合い子供が目礼をしなかった。その程度のことらしい。日本だったら何でもない話である。子供は萎縮して真っ青になっていた。父親は日本人とまったく変わらず、朝鮮半島出身だと知ったのはずっと後のことである。この子供は後に警察に何回か補導されるようになった。一番最初のときは父親が我が家にあわてて来て、どうしたらいいかという。どうしたらいいかと言っても警察に行くしかない。
日本と韓国でもこれだけ異なっている。日本と欧米はどうか。まったく異なっている。それなのに無理に合わせた結果、戦前は敗戦を引き起こし戦後は一時は繁栄したに見えても社会が崩壊した。日本はアジアの一員として暮らすのが一番いい。そうすれば在日アジア人も繁栄することができる。


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