千三百五十五 夏休み特別企画第六弾 悟り寺の戒壇開き
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
八月二十五日(日)法要前
ミャンマーのお寺が(1)板橋、(2)新しくできた和光市、のほか熊谷にもあり(3)悟り寺、と寺号公称して団地の一室だった。今年三月、埼玉県北部西部の在日ミャンマー人が努力し東松山市内の土地を購入し、戒壇認定の法要を行なった。
本日は、建物の建築が終り、戒壇開きの法要が行はれた。日本人で参加するのは私だけかと思ひ、事実最初のうちは、私だけだった。
十五年ほど前だらうか、関西国際空港から北京まで行った。空港内で聴こえる言葉は、関西弁だけで、東京弁は話してはいけないやうな雰囲気なので、ずっと黙った。今回はそれと同じで、聴こえて来るのはミャンマー語ばかりなので、私は黙った。
二階の本堂に上がると、導師のニャーヌッタラサヤドーを中心に、五名ほど比丘が前でこちらを向いて座る。私も部屋の最後尾の近くに坐って待機したが、そのうちミャンマー語の指示に従って皆が一階に降り始めた。私も降りようとする直前で待機になり、三人の長老が入られた。
そのあと我々は一階に降りた。そのときは理由が判らなかったが、どうやら関係者などが入るので、全員外に出た様子だった。
和光市の新しいお寺の役員の女性と会ひ、一階のたくさん人が座る部屋に行ったり、一人で外に出たりするうち、日本人男一人女二人と会った。経典学習会の常連で、和光市のお寺の雨安居明け法要で本日の催しを知ったとのことだった。そのときはNHKが和光まで取材に来たさうだ。
皆でそれぞれお布施の手続きをした。比丘日用品一式が3000円、衣が3000円、建築寄付は1円以上とあるので、私は日用品と衣で6000円を寄付した。
別棟の食堂兼集会所で四人が座ってゐると、経典学習会の通訳さんが来られたので、五人組になった。オバササヤドーと同じ電車だった、トゥミンガラ比丘も電車で来られた、夏にミャンマーへ行った人が修行から数日前に戻ったなど話が弾み、かなり経過して通訳さんは分かれて外に行かれ、更にかなりして皆で外に出た。日本人向けに数珠を配ってゐる話があり、三人は既に手首に巻いてゐた。私ももらったほうがいいと云ふが、そのときは大乗みたいなのでと遠慮した。

八月二十五日(日)その二法要と托鉢
日本語の法話が始まったとスタッフのミャンマー人が教へてくれたので、本堂の建物の一階外側の玄関内に座ってニャーヌッタラサヤドーのお話を聴いた。仏歴2562年(あるいは2563年だったか?)西暦2019年平成31年3月に戒壇認定の法要を行ひ、建物を作って本日戒壇開きの法要を行ふ、参加者が事故無く多幸であるやうにとお話があった。
話を聴きながら、さうか今日まで無事来れたのは上座のお寺に参拝しお布施もして来たからだ、と考へ方を軌道修正した。何となく自身の力でやって来れたやうに思ってしまふから、しょっちゅうお寺に行くことが重要だ。 ミャンマー語でも法話があった。こちらのほうが長かったやうな気がする。板間に正座したから足が痛くなった。
私は板の間の一番端に座り、他の日本人は立ってゐた。私が席を譲らうとしたが、遠慮された。この場合、立ったほうが楽なことに気付いた。そのうち立つ日本人が外に出たので私も立って、しかし玄関内には留まった。最後に、お経を皆で唱へる。
全員が、唱へるか少なくとも合掌だけはするのに、どちらもしない男が二人ゐた。しかも半ズボンだ。私を含めて全員が長ズボンか民族服(和服みたいに足は両足を包む)のどちらかだ。なるほど日本人には、我々四人組のほかに、奥さんがミャンマー人の人もゐる。
法要の始まる前に、日本人に数珠を配るスタッフと会った。悟り寺のバッチを付けるので判った。質問して比丘からを確認して受け取り、なるほど上座では手首に糸を巻く習慣があるが、それの数珠版だと判った。数珠の先に糸が付く。
半ズボンの男性も数珠をしてゐた。数珠は、日本人の夫に、今後も配偶者のお寺参詣にご協力をお願ひしますと、さう云ふ意味だらう。
私もうっかりしたことがあった。ミャンマー人は全員が靴下を脱ぐ。私は板橋のお寺と、クムダサヤドーの瞑想指導会の経験から、靴下を脱がないことをまったく気にせず今まで参加してゐた。しかし半ズボンの日本人だけが靴下を履き、他は全員が裸足だ。私も慌てて靴下を脱いだ。
今まで、曹洞宗は靴下を脱ぐが、上座の瞑想会は靴下を脱がず、これは初心者にとって参加しやすい。しかし室内だけではなく、敷地内や道路でも裸足なのはよいことだ。
法要が終り、建物の外に出て、お寺の前の歩道に袋状に並んだ。日本人三人組が持ってきた料理より人手が少ないので、私も手渡しする役割になった。
カビアの先導で比丘方が次々に来られた。托鉢の碗に皆が一人づつ入れる。比丘の後ろにもカピアがゐて、食事以外は碗に触れたあとカピアの袋に入れる。なるほど受付で行った寄付は、目的ごとに日本式ののし袋に合算するが、個々の比丘に寄進する場合は、ここで袋をカピアに渡す。

八月二十五日(日)その三昼食
和光のお寺の女性役員と外で話してゐると、招待された日本人でどうしてよいか判らない中年女性が二人ゐて、その二人に女性役員が説明するところで別れた。私がこの法要に参加したのは、この役員からの連絡だった。
私が忙しいのは、単独行動、日本人四人組行動、役員からの案内、の三つを交互にやるからで、暫くして日本人女性二人を案内する役員に再会した。私も呼ばれサヤドーたちが食事をされる場所に行った。私が前に行くやう云はれたが少し行っただけで遠慮して日本人女性二人と代はった。少しして再び私に前に行くやう云はれ、男性はそこまで行けると云はれ、なるほど比丘は女性に触れてはいけないが、食事のとき近付いてよい線にも制限があることが判った。
女性三人と別れ、暫く単独行動の後に、日本人四人組に若いミャンマー人既婚女性が加はり、弁当の列に並んだ。この女性は、経典学習会の通訳に名の挙がるほど日本語が堪能だ。日本では子育ての終った中高年の婦人が宗教団体の中心だが、ミャンマーでは子育て中の若い女性が中心だ。女性役員も日本の感覚では若くして結婚し、子育て中だ。
私の予想では、室内にご飯、おかずなどが大皿で並び、各自が取るのかと思ったが、ご飯と鶏肉と細かい昆布みたいなものを笹の葉(大きな葉なのでバナナの葉と云ふ意見もあった)で包んだものだ。
室内に席があるか、ミャンマー女性が聴きに行ってくれて、サヤレーの席が空き五人は入れると云ふので入った。実際にはサヤレーが居られてテーブルを詰めてくださったが、私はテーブルには置かず床に置いて食べた。私以外は少しテーブルに置いたり、サヤレーが更に詰めてくださったりしたが、遠慮して置いたものも床に置いたりして皆で食べた。
他のテーブルから回してくれたおかずは、サヤレーが取らないことを必要時間の10倍くらい確認の後に、頂いた。退出の時は合掌で見送った。つまり比丘の場合と同じに敬意を表した。若い女性だから一時出家だらう。ミャンマーでは娘を沙弥尼に一時出家させることが流行ってきたと聞く。(終)

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