千三百三十六 在家の瞑想と戒律
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
七月二十六日(金)
今でも疑問に思ふことがある。在家が瞑想することの意義だ。上座の伝統では、在家は出家を支へることで徳を積む。在家が瞑想を重視するやうになったのは、ミャンマーがイギリスから独立した直後に、当時のウーヌー首相などが瞑想センターを作り、イギリスに破壊された民族意識の復興に役立てるためだった。
タイは西洋列強による帝国主義の時代を生き延び、植民地になることはなかった。しかし戦後になって社会が複雑化したためか、在家でも瞑想をする人が出て来た。ワットパクナムと、その流れを汲むタンガマーイがある。しかしタンガマーイは世間から見ると新興宗教並みの集金力、組織力が大問題になり、今でも紛争中だ。
私は瞑想が目的ではなく、伝統の上座を学ぶ一環としてこれらに参加する。だから先日、クムダサヤドーが来日されたときは、日帰り瞑想会の最初だけ顔を出して、あとは帰らうとしたくらいだった。
クムダサヤドーは合宿瞑想も指導されるが、私は参加したことがない。インターネットによると、今年の合宿で次の法話があった。
今私達がサマーディに入れないのは、ちゃんと戒律を守っていないからかもしれないと、セヤドーはおっしゃっています。
お酒を飲んだら絶対にサマーディには入れません。
お酒を飲んでいる方はいらっしゃいますか?
参加者:(手を挙げる人なし)

私が参加したら、私だけ手を挙げただらう。私が参加しないのは、それが理由ではなく、長時間瞑想すると肩が凝るためと、在家が瞑想することの伝統との整合性のためだ。
普段から合宿に参加する人たち数名に話を聞くと、酒を飲めない体質とのことだった。だとすると、日本では酒を飲めない人にしか瞑想を広めることができない。瞑想抜きで上座の仏道だけを広めることなら、不可能ではないが。

七月二十七日(土)
瞑想とは別に、在家の五戒に不飲酒戒がある。酒を飲むと嘘をつきやすくなったり、パワハラやセクハラも起きやすくなる。だから酒は飲まないほうがいい。私自身は、焼酎をアルコール分2.5%くらいに薄めて飲む。ビールの更に半分だ。
当時の釈尊が禁止された酒は15%くらいだらうか。日本でも昭和60年代までは、酔った人が道で寝てゐたり、醜い光景が多かった。当時は酒と云へば日本酒のことだった。だからビールを飲んだ人に「酒を飲んだのですか」と聞くと「酒は飲んでない。ビールを一杯飲んだだけ」と答へるくらいだった。だからビールや、更にその半分の濃度なら、酒の中に入らないかな、と考へたりする。
余談だが、外資系に勤めたことのある人は、昼休みにビールを飲むことがある。ビールくらいなら大丈夫だ、と云ふことらしい。私は絶対に飲まない、と云ひたいがアメリカ出張中に勧められて飲んだことが一回ある。

七月二十八日(日)
ミャンマーにはミャンマービールがあり、タイにはシンハー、レオなどのビールがある。仏教国なのに、建前と現実が違ってゐると批判してはいけない。そのため在家は毎回受戒する。五戒を受けたものの、世間で生活をするとそれを破ってしまふ。だからお寺に行ったときに再び受戒する。
それに対し比丘は、一回しか受戒しない。そして満月と新月の日に布薩(ウポーサタ)を行ひ、戒律に違反しなかったかを反省する。比丘が農作業をしなかったり雨季に外出しないのは、虫を殺さないためだ。在家がもし五戒に違反してはいけないことになったら、農作業に従事できないから食糧危機に陥るし、雨季には外出できないから大不況になる。在家はできる範囲で徳を積む。これが大切だ。

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