千三百十四 左右に代はる二つの指標
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月二十九日(水)
米ソ冷戦の時代は左と右が政治の指標となった。ソ連が崩壊の後は、新しい指標が必要だ。必要は発明の母と云ふことわざがある。安倍を分類する必要があり、まづ「1.道徳型」「2.私欲型」「3.大多数型」に分類した(「安倍首相は“エセ保守”。心を動かすものが何もない。籠池さんが安倍を批判」へ)。
私が、左や右に参加したり、あちこちの宗派に参加したりするのも、「1.道徳型」の比率が高いところに参加するからだ。
五月三十日(木)
もう一つ別の指標を考へた。少し前の伝統を保守するのか、それとも大昔の伝統を回復させるのか。長谷川三千子さんの神やぶれたまわずを読んで、そのことを考へた。
それでは伝統を考慮しない人はどこに入るのか。この指標では、伝統を考へない人はゐないとする。改革が好きな人も、それは最近の傾向への改革だ。まづそれは技術に留まる。もし技術を超えるなら、思想では少し前の伝統を保守するのか、それとも大昔の伝統を回復させるのかどちらかになるはずだ。
六月一日(土)
それでも、私は伝統を考慮しないと主張する人がゐたらどうするのか。言語を使ふこと自体が、伝統の範疇にある。或いは社会の常識に従ふことも伝統の範疇だ。伝統を考慮するしないはデジタル値ではなく、アナログ値だ。だから程度の差こそあれ、だれでも伝統を尊重する。
その前提でも、伝統への考慮が低い人は皆無ではない。これらの人たちを唯物論と呼ぶ。一番の典型はカンボジアのポルポトだ。唯物論の単語を信じてしまひ、人殺しは自由、社会の破壊も自由、文化の破壊もやりたい放題だった。
ポルポトは奨学金を支給されてフランスに留学したから、頭が悪いのではない。カンボジアは西洋と比べて遅れてゐたためでもない。因みに私は西洋化されてゐない国を遅れてゐるとは思はないが、ポルポトが野蛮だった理由としてさう考へる人が多いので、留学組が西洋と比べて遅れてゐたために虐殺が起きたのではないことを、ここではっきりさせたい。
資本主義は唯物論だ。帝国主義も唯物論だ。西洋の猿真似、英語英語と叫ぶ連中も唯物論だ。
六月二日(日)
太古の時代に戻すことは原理主義だ。原理主義と云ふ言葉は悪い意味を連想するが、誰でも観察の角度を変へれば伝統主義にもなるし、原理主義にもなる。例へば私は、化石燃料の使用を停止しろと主張する。これは産業革命以前に戻すことだから、人類史の年数で測れば直近だが、文明の変化で測れば太古に帰ることだ。だから私を原理主義に分類することもできる。
一方で、私は昭和三十年代に戻らうとも主張する。これだと産業革命の伝統は許容するから伝統主義だ。昭和三十年代は、経済が開戦前まで回復し、しかし高度経済成長の前だ。私の感覚では、悪い時代ではない。そればかりか世の中がどんどん悪くのを感じた。
小学生にそのことが判った理由は二つある。一つは、それまでのNHK子供向けテレビドラマ「チロリン村とくるみの木」の暖かい主題歌が、「ひょっこりひょうたん島」の無機質でごつごつした音楽に変はった。二つ目は、このままでは地球が滅びると小学生でも気付いた。
六月四日(火)
一番目の分類に戻ると、安倍は「2.私欲型」だ。お友だちの私欲を満たすこともあるが、これだって落選中の議員を教授にしてもらったり、県の文書に書いてある都合の悪い部分は事務局長が嘘をついたことにしてもらったりするから、結局は本人の私欲だ。(終)
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