千二百九十七 9.まとめ(原始の仏道を学ぶ意義、大乗所感)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月十七日(金)
上座が既に栄える国々は、今までの伝統を守れば今後も栄える。その他の国では、初期仏法について言及できる上座にすることで、各国に点在する仏法信仰者をより一層納得させることができる。
上座の国々が近代社会の変化に遭遇したとき、これまでは信徒も瞑想をすることで対応してきた。しかし今後、社会の変化がさらに激しくなったときは、原始仏道の時代にこんな考へがあったとすることで、より選択肢が広くなる。
原始仏法は、上座の仏法に役立つべきで、間違ってもマハーカルナさんみたいに上座を批判する目的で名乗ってはいけない。

五月十八日(土)
中村元さんの著書を四冊読んで感じたことは、中村さんにも間違ひがある。中村さんのパーリ語やサンスクリット語や漢文の読解は精密で正しい。しかしそれを解説する部分で間違ひが生じてしまふ。中村さんが日本国内に上座とほとんど接点が無いときに、これら古文書を研究されたからで、これは仕方のないことだ。

藤本さんについては、「浄土真宗は仏教なのか」は名著だ。上座と浄土真宗に造詣の深い藤本さんでなければ書けない。浄土真宗本願寺派から独立した直後でもあり、熱の入った主張には頷くばかりであった。
浄土真宗については、これまで悪い印象が多かった。織田信長の合戦や北陸地方の戦ひには、親鸞門下の他派どほしが敵味方になった。殺生を厭はない姿勢は仏道とは無縁だ。本願寺の門徒が高田派など他派を圧倒するのも、一つには合戦が関係する。
或いは東西本願寺の末寺数を合計すると、他の宗派を圧倒する。これは寺が世襲のため世俗的な欲が布教に輪を掛けたためではないか。或いは親鸞の廟所の管轄権を巡る醜い争ひ。
「浄土真宗は仏教なのか」を読んで、藤本さんのやうな熱心な人がゐることで、浄土真宗に改めて親近感を持った。と同時に、これは日本国内の他宗への不満からでもある。浄土真宗は非僧非俗が伝統だが、他宗は違ふ。
妻帯の悪影響は二代、三代と続くうちに、末寺の劣化をもたらす。浄土真宗については、藤本さんが上座と調和の道を提案されたのだから、他宗派にあっては、妻帯に依る弊害を乗り越える方法を提案してほしい。私は既に、(1)弟子は檀家または外部の希望者から見つける。(2)妻帯者は社僧または寺院管理檀徒先達を名乗る、などを提案してゐる。

五月十九日(日)
今回八冊の書籍を読んで、私の考へが多少変はった。これは良い事で、読んでも話を聞いても考へが変はらないのは、柔軟性に欠ける。私は長いこと中村元さんの影響で、初期の仏道は複雑ではなかったと考へてきた。これは出家者や在家が激増した根拠でもある。複雑な教義で激増する筈がない。
次に、小部経典は後に経蔵に追加されたことを読み、それなら複雑な部分もあったと考へを改めた。これは数ヶ月前のことだ。
今回八冊を読んで感じたことは、やはり初期の仏道は複雑ではなかったのだらう。第一次結集に含まれた小部経典が、後に外された。そして再び加へられた。

無我については、無記だし、涅槃のときに輪廻を抜けるのだから、そのときまでアッタンが無い筈はない。ところがどうしても無我の言葉に引き摺られ、我が無いと判ることは瞑想法の一つと、これまで曖昧な考へでゐたが、今回の調査で初期と部派の違ひが判った。

今回の八冊とは別に、新宿区立図書館でジャータカを何話か読んだ。私自身は、お釈迦様がこの世に生まれ修行の結果、阿羅漢であり正等覚者になられた、と思ふ。だから前世でどのやうに修行したかは、まったく興味がなかった。だから今まで読まなかったのだが、読んでみるとこれは優れた文学作品だ。
お釈迦様を敬愛するあまり、前世もその前もそのまた前も善行を重ねる物語が作られた。お釈迦様の徳を広めるから、布教にも役立つ。
幾つか読んで感じたことは、菩薩時代のお釈迦様の行動から、瞑想は目的ではなく、瞑想で心を浄化し善行をすることが目的だと感じた。(終)

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