千三百十七 二転、三転したジャータカへの思ひ(ジャータカ全集第一巻)
己亥、西暦2019、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月二十八日(火)第一転
私にとりジャータカは不思議な経典だ。食はず嫌ひで、長いこと読まなかった。その理由は私には、釈尊がこの世で生を受け努力して、阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊になったと信じたいからだ。とは云へ、人間に生まれること自体が稀だから、前世や前々世で功徳を積んだことは間違ひない。
たまたま午前に内科で診察してもらひ、その日はお昼まで私用外出の手続きをしてあった。昼休みに繋げて百人町のイスラム系タイ料理の店か、高田馬場のミャンマー料理の店に行くためだ。以前は西新宿の三つ並ぶタイ料理の店によく行ったが、百人町に500円で頑張る店を見つけて、そこへの応援と、イスラム系でもタイ国旗を掲げる立派な店なので宗教融和のためにも行くやうになった。
この日は内科のあと、このタイ料理店に行くことにしたが、開店の11時半まで時間がある。そこで新宿区立の図書館でジャータカを読んだ。これが優れた内容だ。そこで本格的にジャータカを読むことにした。
五月二十九日(水)第二転
春秋社から出版された「ジャータカ全集」の1から3まで借りた。まづ1を読み始めて憂鬱になった。本文の前にある因縁物語(前文と「遠い因縁話」「遠くない因縁話」「近い因縁話」)を読んだときだ。一番の感想は、これは釈尊の時代に作られたものではない。
それでも気を取り直し、本文の第一話から幾つかを読むと、これは図書館で読んだのと同じで素朴な内容だ。話によっては上座仏道の貴重な情報もある。
本文は作り話だと判るから逆に有益だ。テレビドラマ「水戸黄門」と同じで、誰もが作り話だと判って観ると、終了間際に印籠が出て、悪人は成敗され、善人はめでたしめでたしで終はる。ジャータカの本文も、最後に善人が救はれて、誰だれは実は私(教へを説く釈尊)であった、で終はる。
本文は素朴だ。因縁物語が問題だ。これをどう調和させるか。
五月三十日(木)第三転
全集は各巻ごとに訳者がゐて、全体の監修を中村元さんがされた。中村さんの「はしがき」に
最後におことわりしておきたいが、仏教経典の一部としてのジャータカは、韻文の詩の部分だけであり、散文の部分は後代の注解的説明である。
これは重要な情報だ。さりげなく第一巻の「はしがき」にあるから、多くの人が見逃がしてしまふ。なるほど韻文の詩の部分だけを読めば、因縁物語は貴重な経典だ。これで憂鬱な気分は晴れた。
ここで釈尊が一代の修行で涅槃に達したと考へることは、上座の伝統と異なるのではないかと疑問を持つ人もゐるので理由を説明しませう。まづ初期の経典には何代にも亘って修行したと云ふ記述がない。とは云へ人間に生まれるのに善行が必要だし、人間でも涅槃に達するには前世での善行が必要だ。だから現世の修行で涅槃に達したと言っても、前世でも修行したと言っても、差はない。
二番目に昔は変化の無い時代だったから、何世代にも渡る修行は受け入れられた。今は世の中の変化が激しいから、何世代も修行をしなくてはいけないと云はれると、上座の伝統のある国は大丈夫だが、それ以外ではなかなか受け入れられない。
話は変はるが、預流果は最大七回生まれ替はることについて、まだ涅槃する決意に至らない人でもなれるから、比丘や修道女にとってはそれほど難しくないのではないだらうか。それでゐて、人と天にしか生まれ替はらないのだから、上座の仏道は魅力的な教へだ。
五月三十一日(金)第一話「堅実なもの前生物語」
第一話の韻文は
ある人々は堅実な道理を[語り]
憶測をする者たちは、第二[のそうでないもの]
を語る。
智慧ある者は、このことを知って、
この堅実なものを取るべきである。
散文は9頁ある。ここに
かれらは師の説法を聞いて、信仰心をおこし、立ちあがって<十の力をもつ人>を礼拝し(以下略)
XX教も聖書には、キリストが次々に奇跡を起こす話が載る。仏道の経典にも奇跡が載ることがあり、どちらも科学が未分化だった時代のことだ。今は科学が発達したから、騙す目的で非科学的なことを言ってはいけない。昔は非科学的なことを云っても騙す目的ではなかった。今は騙すことになってしまふ。
次の話題に入り、砂漠を2つの隊商が進むことになった。牛が食べる草、人々が飲むスープの葉の量が限られるから、同時には行けない。
ボーディサッタのほうはあとから行くことに多くの利点を見出した。(中略)かれらは水のない場所に井戸を掘って、水を出させることだろう。わたしたちは、他人さまがこしらえた井戸で水を飲むことができる。値段を定めるということは、人々の生命を奪うようなもの、わたしは、あとから行ってかれらが定めたのと同じ値段で品物を売ることにしよう(以下略)
先に行った隊商ぱ夜叉に騙され、夜叉に食べられてしまふ。ボーディサッタの隊商ぱ夜叉にだまされず無事難所を通過する。愚かな隊商主はデーヴァダッタ、賢い隊商主はわたくし(説法する釈尊)だった。
この話は、一回目に読めば面白い。しかしボーディサッタ(漢字で書けば菩薩。仏になる前の釈尊のこと)が相手の隊商を見殺しにするだらうか。あとデーヴァダッタをそんなに悪く云ふ説法をするだらうか。散文は経典ではなく注釈書と云ふことで、読む人が救はれる。
六月一日(土)第五話「一ますの米前生物語」
マッラ族出身のダッバ尊者が僧団の食事の分配係であった。かれは早朝に、くじによる食事を割り当てていたが、ウダーイン長老には、あるときは上等な食事が当たり、(中略)粗末な食事が当たった日にはくじ引き室を騒がし(以下略)
この話で不思議なのは、長年比丘として修行した長老でも粗末な食事が当たると不満に思ふのかと云ふことだ。釈尊在世のときは、このやうなことが起きるはずはない。滅後に僧団が堕落した時期もあり、だからこのやうな話が疑問を持たずに存在できるのだらう。これも韻文にはない話なので、そのことが判れば読む人は救はれる。
六月二日(日)第二十一話から第四十話まで
第二十一話から第三十話まではカモシカ、犬など獣の物語、第三十一話から第四十話までは鳥、魚の物語が続く。どれも賢い動物は釈尊の前世で、人間として修行しないと選択肢が広がらないのではないかと云ふ疑問を打ち消すほど、素朴で釈尊への尊敬を深める話はよいものだ。
ジャータカ全集は十巻で、それぞれ別の訳者が担当された。私が読んだのはごく一部で、その膨大な量へのご尽力に敬意を表したい。(終)
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