千二百九十七 上座に関係する書籍を読む(8.藤本晃「浄土真宗は仏教なのか」その他アビダンマ関連の書籍)
己亥、基督歴2019+3α年、ヒジュラ歴1440/41年、紀元2679年、仏歴2562/63年
五月十二日(日)
1.藤本晃さんの「日本仏教は仏教なのか」を読んだときは、十二縁起以外は藤本さんの説に賛成(半分賛成と少し賛成もあったが)だったが、2.から7.まで中村さん、奈良さん、三枝さんの著書を読むうちに、藤本さんの書籍に賛成する割合が低下した。そのあと藤本さん共著のアビダンマの本を四冊と、藤本さん単独の「『アビダンマッタサンガハ』を読む」を読んで、一旦は藤本さんに不信感を持った。図書館の返却期限より前で、しかも次に予約した書籍がまだ来ないのにわざわざ返しに行った。それほどこの五冊は嫌だった。私の不信感はよく考へると、論蔵になぜこんなものを入れるのかと云ふ不満で、それは上座への不満に発展しかねない。しかしそこは大丈夫だ。仏道と科学が未分化の時代には、このやうな研究をすることが仏道の発展に繋がると考へた。その時代にその場所で生きたなら、私だって違ふ考へを持っただらう。
「浄土真宗は仏教なのか」を読み、藤本さんへの不信感が一気に消滅した。と云ふことで「浄土真宗は仏教なのか」をこれから称賛したい。

「大乗経典は、自分で『これはお釈迦様が説いた仏説だ』と嘘をついているのだから、ダメですよ」という、単純明快なことなのです。
(22)
これはすごい指摘だ。この問題は今まで指摘されなかった。私自身は、大乗の仏道にも長い歴史があるのだから、その伝統で今後も続けることがよいと思ふ。長い歴史を無視して大昔に戻すのは原理主義者のやることだ。
とは云へ、上座の仏道を卑称で呼ぶ悪い輩が日本には未だに残存する。さう云ふ連中に対してのみ、お前たちは不妄語戒に違反してゐると声を大にして叫ばうではないか。

五月十五日(水)
江戸時代までのお坊さんたちは、大乗経典が偽物だとは知らなかったのです。(34)
ここは重要で、江戸時代までのお坊さんは無罪だ。しかし明治以降は丁度、地動説が当たり前になった今でも天動説を宣伝するやうなもので、これは有罪だ。
ダンマ・アソーカ王は、二十部派にもなった比丘サンガの中で(中略)あまりにもお釈迦様の教えから離れてしまったいくつかの部派(サンガ)を解散させ、その比丘たちを丸ごと還俗させています。(中略)就職の斡旋までしてあげたのですが(中略)非僧非俗の「大乗」のきっかけになったのではないかと考えられるのです。
(47)
藤本さんは「想像してみます」としてこの説を書いたから、間違ってゐても何ら問題はない。とは云へ二つ問題点を指摘すると、インドには部派、大乗、部派大乗兼備の三つのサンガがあったと云ふ。だとすれば比丘が瞑想の方法として作ったものが、時代を経るにつれつひに新たな仏像まで作るに至ったとするほうが良くはないか。
二番目に、日本以外は今でも大乗僧は比丘戒を受ける。日本でも比叡山に戒壇ができるまではこれを守った。だから非僧非俗ではなく、比丘が大乗を作り伝へたのではないか。
日本で大乗と云へば鎌倉新仏法だが、世界は違ふ。比丘戒と止観を保つ。
日本では、お釈迦様であれ阿弥陀仏であれ、ブッダを念ずると言っても、遥か西方の、インドとか極楽とかの、見も知らぬ国の方角を(以下略)
(66)
お釈迦様は師匠であり、拝む対象ではない。上座の仏道は比丘の間では今でもそれが守られる。大乗もかつてはそのことが判ったから、阿弥陀仏など別の対象を拝むのではないか。
世界中の情報が瞬時に手に入り(中略)明治の開国により明らかになって以来百五十年間も疼(うず)き続けてきた日本仏教の古傷が、いよいよズキズキと痛むようになってきました。
(91)
として藤本さんは、三つの古傷を挙げる。第三者による架空の大乗経典、戒律を守らない、そして浄土宗や浄土真宗は極楽浄土と云ふ古傷である。実際にはもう一つ、浄土真宗以外は明治以降の妻帯肉食と云ふ古傷もある。戒律を守らないのは比丘戒のことで、江戸時代までは比丘戒を受けなくても妻帯しない、肉食をしないなどは守った。

五月十六日(木)
極楽浄土が悟りの世界だということ。(中略)「これが悟りだ」というわけではありません。極楽浄土で悟れるから、極楽浄土は悟りの世界だと(以下略)(105)
これは浄土真宗と上座の両方を知らないと云へないことだ。私なんかは、極楽浄土が涅槃だと思ってゐた。だから還相回向は変だとは思ったが、大乗だからまあいいや、と諦めてゐた。
(預流果は)無常、苦、無我だけははっきり分かり(中略)三悪道には決して堕ちず、最多でも人界と天界の間を七往復輪廻する間にはかならず阿羅漢に悟ります。(115)
私はこれまで預流果について、出家しなくては原則無理と考へてゐた。出家者が七往復は多いし、四向四果の合計八つも多いから、これは中村元さんの説で、部派の時代に教義が複雑化したためだらうと考へてゐた。しかし藤本さんの極楽との関連説で観れば、在家は半分くらいは預流果になり、一部は一来に行ける。すると比丘は普通が一来、一部が不還果。これならお釈迦様の在世にもあっただらう。
初期浄土経典の時代には、(中略)まだお釈迦様の教えを意識しながら経典を作っていたけれど、数百年後の後期浄土経典の時代になると、(中略)四沙門果など初期仏教以来の教えは、意図的にか自然にか記述から外され、忘れ去られるようになったのだと思われます。
(122)

五月十七日(金)
人間として生まれることはとても大変なのです。(中略)七十億程度では、全生命の数と比べるとあまりにも少なすぎるのです。(中略)畜生も、人間と同じくお腹から生まれる胎生だったり、卵から生まれる卵生だつたりしますから、生まれるタイミングなどでちょっと苦労しますけど、とにかく、数は多すぎるほど多いのです。(137)
それでは徳のある人が死んだ場合は
人間界の空きは滅多にありません。(中略)簡単に生まれる生まれ方は、化生です。自分の業だけで霞のような身体をつくって、(中略)自分の意志だけで簡単にパッと生まれるのです。
(138)
そして
化生で生まれる善い処は、天界だけです。化生で生まれる悪い処は、地獄と餓鬼(幽霊)界です。

普通の人は再び人間界に生れる確率が低い。これについて
お釈迦様も、たぐいまれなチャンスに巡り合えた今生で、完全な悟りを開くことを勧めておられます。しかしほとんどの人が、それができないまま亡くなります。それならばせめて、という感じでお釈迦様は、来世には天界に生れることを勧めておられるのです。天界が善い処だからというわけではなく、次に人間に生まれるチャンスを待つ間、苦しみを受けるより楽を受ける方がましだからです。
(139)
ここは浄土真宗と上座の両方に造詣が深い藤本さんの名解説だ。天界に往生する方法は
1:世間の善行為を行う。
2:仏法を学び修行して、預流果か一来果の悟りに達する。
3:悟れなくても、仏法に触れるという善行為をおこなう。
(140)
このうち2は天界が確実で、それ以外は臨終の瞬間まで安心できないさうだ。
『観無量寿経(または観経)』は、全編、阿弥陀仏とその極楽浄土の様子を心にありありと描き出す観想修行によって極楽浄土に往生できると説かれています。これは特定のイメージに一心に集中する、明らかなサマーディ瞑想です。仏教以外でもおこなう一般的な修行を、仏教的にアレンジしているのです。
(149)
次に
像想観は、念仏三昧とも呼ばれています。これは口に称える称名念仏ではなく、心に思い念じてサマーディに入るまで頑張る「念仏」のことです。ただし口称念仏でも、一日ないし七日間、あるいは十万遍など、一心不乱にやり続ければ、心を一点に集中するサマーディ瞑想ということになります。(中略)日本では比叡山の天台宗や法然上人の浄土宗に伝わっています。
(149)
この情報は貴重だ。宗教の統一につながる。その一方で
心に念じる念仏でも、仏の九つの徳などを観察する、仏教独自の観察(ヴィパッサナー)瞑想の「念仏」も、初期仏教にはあります。日本の浄土教にはほとんど伝わっていないようです。
(150)
ヴィパッサナーが(1)仏教独自で、(2)唯一優れた瞑想法だとするのは、二つ揃ふと間違ひになる。もしさうなら仏道が世界中に広まらないといけないが、現実にはさうなってゐない。ヴィパッサナの目的は、苦、無常、無我に気付くことではないのか。
五逆罪を犯しても来世に地獄に堕ちなくて済むというのは、お釈迦様の教えと一致しません。(中略)大乗経典がお釈迦様の教えを踏み越えてしまった悪しき一例です。
(154)
それより五逆罪を犯しても救はれるその偽善は、初期の仏道には見られない。

五月十八日(土)
仏教には、信仰はありません。お釈迦様や大阿羅漢などすでに涅槃に入っている方々に最大限の礼拝をしますが、それも「信仰して拝んでいる」のではなく、偉大なる「先生にご挨拶」をしているのです。(260)
お釈迦様がご在世のときはそれでよかったが、第一次結集のあとは経典を次世代に伝へる大切な役割が加はった。仏像が祭られるやうになった後は、仏像を荘厳にすると、仏前で読経することも加はった。これらは禅定に役立つか役立たないかと云へば、役立つ。すべての行為は業となるからだ。
仏教も浄土真宗も、道徳や常識を外れるのではなく、越えているのです。(中略)道徳心や常識もない振る舞いは、浄土真宗でも仏教でもありません。ただの「本願ぼこり」です。
(297)
近年は、瞑想で涅槃を目指すことが多くなったが、本来は涅槃には心を浄化し智慧を得ることが必要で、そのために瞑想その他をするのではないか。その他には読経や布教や仏前を荘厳にすることも含まれる。だから心を浄化し智慧を得る前提として、道徳や常識は必要だ。
お釈迦様が最初から自力を完全に否定して、まったくの他力で悟ると宣言しておられるのです。パーリ『相応部』経典「コーサラ相応」に(中略)

アーナンダ尊者:「善友に恵まれれば、修行は半分まで達せられますね」
お釈迦様:「そうではない、アーナンダよ。善友に恵まれれば、修行はすべて達せられる(阿羅漢に悟れる)のだ」
(312)
大乗を鎌倉仏法と勘違ひし、大乗は他力だが上座は自力だとする人がかなり多い。と云ふかほとんどさう思ってゐる。しかしこのお釈迦様の言葉で間違ひだと判る。
浄土教の中に悟りへの道の片鱗を探すなら(中略)世親菩薩の浄土論の中にわずかに示されていました。(中略)ただし世親は、サマタ瞑想を極楽世界(梵天界?)に入るため、そしてヴィパッサナー瞑想を極楽の荘厳をありありと観察するために修すると説いています。それでも止観の行法そのものは、まず禅定(止)に入り集中力を高め、その力で現象をありのままに観察して無常、苦、無我を悟る、お釈迦様以来の正しい修行法です。日本の大乗仏教にも天台宗の止観として伝わっています。
(343)
前半の世親については、私には読んだことがないから、藤本さんの学識を称賛するばかりだ。後半のヴィパッサナの目的については、藤本さんに大賛成だ。最近ヴィパッサナの目的が無常、苦、無我から外れる傾向にあるので、特に大賛成だ。
日本仏教がみんな仰いでいる各宗派の「開祖様」を兄弟子の一人ととらえ、すべての「開祖様」の上に、お釈迦様が先生として導いておられるのだと認めることができれば、それで充分です。
(354)
私はこの原理を更に進め、すべての宗教の開祖、宗祖、預言者はサマタとヴィパッサナーの方法を示したと考へる。(終)

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