千二百八十九 ミャンマー経典学習会
平成三十一己亥年
三月三十一日(日)
本日は久しぶりにミャンマー経典学習会が開催された。先月は担当の若い比丘がミャンマーに帰国中のため中止、今月はオバササヤドー(サヤドーは長老比丘への尊称)が同じく帰国されたため、月末になった。だから二カ月半ぶりの学習会だった。
マハーカルナ元比丘の事件があってから、参加者が昔の水準に戻った。マハーカルナ元比丘のパオ森林僧院日本支部が始まる前と顔ぶれは異なるが、いつも最前列に並んでマハーカルナ元比丘の話を聴いたと云ふ二人を始め、熱心な人たちだ。

四月四日(木)
マハーカルナさんのメールリストから脱退した。昨年十月にマハーカルナさんの法話を聴き、それからも題によっては参加しようと思った。後日インターネットでマハーカルナさんの法話を聴き、上座部大寺派は部派仏教のなかでも異端と批判した。これは根拠のない悪口なので、これ以降、マハーカルナさんの法話には参加しなくなった。
すぐに手続きをすればよかったが、せっかく入れてもらったのにすぐ脱退するのは悪いと思ひ、今日まで伸びてしまった。

四月六日(土)
ミャンマー経典学習会は大念住経の「受に関する随観、心に関する随観」で、比丘が受の隋観を続ける方法について
楽の受を感じれば、私は楽の受を感じたと知り
苦の受を感じれば、私は苦の受を感じたと知り
苦でも楽でもない受を感じれば、私は苦でも楽でもない受を感じたと知る

について解説があった。ここで受とは感覚のことだが、経典学習会から離れて私の知識で五蘊を用ゐて解説すると、五蘊は色、受、想、行、識(しきじゅそうぎょうしき)。コンピュータに例へると、色はコンピュータの本体、受はキーボードやマウスなどデータ受け取り機能、想はそれをデジタル化する機能、行は記憶機能、識はCPU機能。このうちの受について解説があった。私のメモ書きによると苦の受について
無常であり無我である苦の受

とある。受を受として感じるのではなく、感じる段階で無常であり無我である苦の受とすることは、なるほどと思った。ここでたくさんの弟子がゐる或る長老の話になり
教へることはできるが自分で修業しない人は牛の案内人みたいだ。習ったら実行しなくてはいけない。我々も時間取ってやったほうがいい。
ワサ(安居)の三か月。明けの前日は満月。比丘どほしが自分はどんな罪があるか言ひ合ふ。罪がないときは煩悩がないと云ふこともできる。
或る僧は結局、煩悩を無くし阿羅漢ににれなかった。悲しくて涙が出た。->苦の受
阿羅漢になるまで、横にならないと決意。ベッドも寝られないやうにした。19年経過。悲しくてまた涙が出た。次の30年。また涙が出た。横でも泣く人がゐて、尋ねたら天女で、阿羅漢になれず泣いてゐた。泣いて阿羅漢になれるなら泣くし。
2日、3ヶ月、30年。我々考へるべきは、長く努力しても駄目なことある。泣くだけでは駄目と考へて阿羅漢になった。楽の受は続くことが無いことを知り阿羅漢になるが、苦の受も無常で続かないことを判らないといけない。
阿羅漢になったら足を洗はう。弟子たちがどうなったか見たら、足を洗ってゐた。弟子たちが足を洗ってあげようと行くと、帝釈天が来た。サヤドーが何しに来たか訊くと、足を洗ふため来たと答へた。帝釈天に限らず神々は人間の臭ひが嫌ひ。丁度人が死臭を嗅いだやうなもの。それが30年洗ってゐなかった足を洗ひに来た。帝釈天が云ふには、戒律を守り努力した人のためやるのは良いことだ。
苦の受の物語。苦の受も無常で無我とわかり、ヴィパサナすると阿羅漢になれる。

この物語は名作といっても過言ではない。次の節に入り
苦でも楽でもない受。五感から来る。モハ(痴)が大きいので、そのまま修行するのは難しい。愛する人が死ぬと苦の受、嫌ひな人が死ぬと楽の受、無関係の人が死ぬと苦でも楽でもない受。五感からの受は修行すべきではない。
年を取る、病気、死ぬ。機をつけないと忘れがち。五感に無常、無我わかると、行ふべき苦でも楽でもない受。修行すると禅定。第一禅定で楽。これは行ふべき受。第五禅定で楽がなくなり、苦でも楽でもない受。
五感から来る楽の受をそのままではなく、苦、無常、無我とわかると。苦もそのままは行ふべきではなく、努力の元とし、報われなくても苦無いとわかる。苦でも楽でもないのは、そのままでは痴。苦、無常、無我とウィパサナでわかること。

以上のお話があった。

四月九日(火)
休憩のとき、私はいつも50mくらい離れた公園の公衆便所まで往復する。お寺の便所が混まない配慮と、気分転換の運動を兼ねる。アジア食材店が営業してゐなかったのは気がかりだ。
質問の時間にまづ私が、天女は阿羅漢になれるか、天女はサヤドーを激励のため泣いたのかを質問した。回答は
人間としてソタパ(預流果)が直接阿羅漢、または天女を経て阿羅漢。もっと上はプラマ(梵天)となり阿羅漢に。神がすべてプラマになる訳ではなく、プラマがすべて阿羅漢になる訳ではない。ブッダの説法を聴いた神々もソタパになった。
天女は比丘の横でわざと泣いたと比丘は感じた、と経典にはある。
ソタパは多くて七回人間または神々を経て阿羅漢。サカタナは一回人間または神々を経て阿羅漢。アナカンは梵天のソタワサ(普通の梵天と違ふ)を経て阿羅漢。

以上のお話があった。次の人の、修行をした結果ブッダを見たと云ふ人がゐるが、の質問に
ブッダは涅槃だから、どこにも存在しない。ブッダが隣にゐると感じることはない。お釈迦様のお経が見えることは、お釈迦様が見える、と云ふお経はある。

と回答があった。次の質問(メモが間に合はなかった)に対し
第一禅定などで満足し留まる人が多いのでヴィパサナに進むやう努力を続ける。心地よいのでヴィパサナに行きたくない人が多いが、行くやうすべき。第五禅定に行ったら二つある。ナマ。ナマなるのはルパ。二つ判ったら智慧を上に行くやうにしてヴィパサナ。

以上の貴重なお話があった。(終)

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