千二百八十四 築地本願寺仏教文化講座諸富祥彦さん
平成三十一己亥年
三月二十三日(土)
久しぶりに築地本願寺の仏教文化講座を聴きに行った。明治大学文学部教授諸富祥彦さんの「ふれあいが生きる意欲をつなぐ すべての出来事には意味がある」で、このうち「すべての出来事には意味がある」が気に入ったからだった。講演が始まって諸富さんの職業は心理カウンセラーだと判った。
参加者は浄土真宗の門徒が多いのかと思ったが、終ってみると諸富祥彦さんの講演を聴きたい人が多かったかなと思った。つまりカウンセリングを受けたい人が多いかなと感じた。
題の前半「「ふれあいが生きる意欲をつなぐ」のお話はあったが、後半の「すべての出来事には意味がある」は無かったので、私自身は肩透かしだったが、充実した一時間半だった。
話し方で感心したのは、何々ですねー、何々なんですよー、と語尾を伸ばす。三十年ほど前に、若い人はなぜ語尾にアクセントをつけるのかと、日本語を習ふ外国人からも不思議がられたことがあったが、さういふ話し方ではなく、軽く語尾を伸ばす。カウンセリングのときは、親しみを相手に与へるため、かういふ話し方をするのだと思ったが同時に、この時点では参加者にカウンセリングを受けたい人の比率が高いとは思はなかったから、普通の大学教授は上手に話さうとするのに、諸富さんはそれがないので偉いと思った。或いはカウンセリングのときの口調が、講演でもでるのかなと思った。
他人を無視しない、相手の言ったことに関心がなくても関心があるやうに言葉を返すと云ふ話もあった。あったどころか本堂全体を四人づつのグループに分けて、関心があるやうに言葉を返す練習もした。関心があるやうに言葉を返すことは、社会生活をする上で大切なことだ。バブルが崩壊してから、日本国内では心に余裕がなくなり、言葉を返すことができなくなった。あと、西洋の架空像の猿真似で、他人との関係は上司など利害に関はる場合を除いて言葉を返すことができなくなった。西洋の架空像とは、西洋には西洋の人間関係があるのだが、西洋は個人主義と云ふ言葉が独り歩きして、個人が無関係に集まったものが西洋社会とする虚像を作ってしまった。

私は、ふれあひについて二つのことを思った。まづ在日ミャンマー人のお寺では、在日ミャンマー人どほしが無私の気持ちでふれあふことができる。これが宗教の力だ。日本のお寺を思ひ浮かべなかった理由は、日本のお寺は住持に家族がゐて、しかも世襲だ。そこには私欲の入り込む余地がある。
二つ目に、神仏分離、僧侶妻帯により、寺が地域社会の中心としての役割を放棄したことにより、地域での有力者の権力が強まり、最近ニュースになった、町内会長が新参者にごみ集積所を使はせないだとか、農村では勝手に農作物を玄関に置き倍返しを強要する事件が起きるのではないかと思った。
ところで、浄土真宗では境内に神社が無かったから、門徒地区における神社の形態はどうだったのだらうか。

質問の時間に、一人質問があったあと、次が出ないので、盛り上げるために私が質問した。それは、物理学などは世界共通だが、心理学はアメリカ人と日本人は性格が異なるなど共通ではない部分があるのでは、と云ふ内容だった。
回答は、本日の内容はトランスパーソナル心理学で、パーソナルをトランスつまり乗り越えるから、人種や民族に関係なく適用できるとする一方で、日本人は個があって関係ができるのではなく、関係が中心で個が弱いから、その補正が必要かも知れないと云ふ回答があった。講演の最初で、ホワイトボードに縦の関係、横の関係を図に書かれたものを利用し、両方の交点を個と説明された。
私のあと、別の方が一つ質問し、講演会は盛り上がりの中を終了した。アナウンスで、暫くすると勤行が始まるので、ぜひご参加くださいと案内があった。だから私は勤行に参加した。勤行の後、前面の扉のうち本尊の前を除いてすべて閉めるのを見ながら、さい銭箱にお金を入れて焼香し(私は一昨年辺りから、講演を聴いてからお金を入れるやうにしてゐる)、帰路についた。

三月二十四日(日)
昨日は、始まる前に築地場外市場に寄った。築地市場が移転する前と賑やかさが変らず、安心した。築地魚河岸は、移転前は仮営業、今は本営業。今のほうが盛大なのは気のせいか。午後2時過ぎなので、客は四割の入りだ。屋外の商店街は八割で混雑してゐた。三階の屋上は寒いため、人はまばらだった。築地市場を取り壊す作業が見えた。建物は九割方、取り壊したやうだ。(終)

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