千二百九十一 宮元啓一さんの著書(1.「ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ」)
平成三十一己亥年
四月四日(木)はしがき
「ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ」の「はしがき」を読み、これはすごい書籍だと感動した。
わが国の仏教学者のほとんどは、僧籍に或る人か、篤信家だからである。/僧籍にある学者は(中略)自派の教義をもって「正しい仏教」だとする観点から逃れられない。(中略)古いインド仏教を研究するさいにも、僧籍にある一部の仏教学者たちは、「解釈学」と称して、自派の教義に強引に引きつけようとする。

これは頼もしい限りだ。とはいへ一回目に最後まで読むと、七割賛成、三割不賛成だ。二回目に読むと、三割賛成、三割反対、残り四割はバラモン教など仏教とは関係が無いものだ。それをこれから指摘したい。

四月五日(金)第一章「輪廻思想と出家の出現--仏教誕生の土壌」
明治時代、西洋近代文明を尺度とした開化、啓蒙運動が展開された。そのなかで、迷信打破の運動も活発になった。(中略)仏教界における迷信打破運動の矛先のひとつは、輪廻思想に向けられた。
日本の有名な神学者が
『スッタ・ニパータ』でゴータマ・ブッダが「輪廻的な生存がなくなった」と語っているこの文言こそ、ゴータマ・ブッダが輪廻思想を認めていなかった証拠だといっている。
(4頁)
これに対し宮元さんは
これは仰天ものなのである。「輪廻的な生存がなくなった」というのは、修行を完成したために、ついに輪廻転生からの最終的な解脱にいたった、という宣言なのであり、輪廻思想を前提としなければありえない内容なのである。

ここは100%賛成だ。逆に100%賛成だからこそ、ブッダは輪廻の時代を生きたからその前提で説法したのであり、別の時代を生きたら別の説法をするから、全体では「無記」。これも正解だ。
それなら100%賛成ではないではないかと云はれさうだが、100%賛成なのに異なる主張が出て来るには訳がある。そこを考察した。
次に、宮元さんはバラモン教の五火二道説を紹介したあと
初期仏教の古い経典においても、この五火二道説と見なしうるものが散見される。たとえば、『スッタニパーナ』にはつぎのようにある。
「一三九 彼は神々の道(中略)を登って、欲や貪りを離れて、ブラフマンの世界に赴くものとなった。(以下略)
(15頁)
この経を以ってブッダが涅槃を説かなかったことにはならないし、死後すぐに人間や動物に生まれ変はらないと説いたことにもならない。この部分は100%不賛成だ。次に
のちに仏教やジャイナ教は、涅槃(ニッバーナ、ニルバーナ)ということばを多用するようになるが、(中略)仏教でも、最初期には、涅槃ということばとならんで、不死ということばが好まれた。
(17頁)
これは95%賛成だ。不賛成なのは「のちに」の部分で、仏教は最初から涅槃を目指してゐた。次に
のちの初期大乗仏教は例外として、インド仏教は出家史上主義の立場をとる。ゴータマ・ブッダも、当然のように、人々に、世俗生活を捨てて出家になれと説いてやまない。(もっとも、ある時期から、ゴータマ・ブッダは家庭的な条件が整わない人に出家をすすめなくなるが。)
(24頁)
これぱ70%賛成だ。不賛成の部分は「のちの初期大乗仏教は例外として」で、インドの初期大乗仏教もやはり出家が涅槃の手段だったと思ふ。一時、仏塔管理者から大乗が生まれたと云ふ説が日本で有力になったが、今は否定されてきた。私は初期大乗のサンガは部派のサンガと変はらなかったと想像する。次に
ゴータマ・ブッダが「悪魔」と呼んでいるのは(中略)バラモンたちを中心とする世俗主義的な人々、あるいはまた、出家修行者に恐れを抱かせる天変地異、猛獣などである。
(中略)
古い仏典に、ゴータマ・ブッダの前に姿を見せる「神」の言語は「デーヴァター」である。(中略)「デーヴァ」と呼ばれる神は、われわれから遠く離れたどこか知らないところにまします神であり、「デーヴァター」というのは、われわれのすぐ身近にいて、われわれに作用を及ぼす力の或る神のことをいう。
(37頁)
ここまでは賛成だ。ところが
古い仏典で、ゴータマ・ブッダの前に姿を現すデーヴァターというのは、先の悪魔とは反対に、ゴータマ・ブッダや仏教の出家修行者たちに好意的な世俗人のことを指す。

これは100%不賛成だ。神々が世俗人の筈はないし、宮元さんは神々の存在さへ認めない。こんな唯物状態で幾ら修行しても、阿羅漢になる比丘は一人もいないだらう。

四月六日(土)第二章「苦楽中道--ゴータマ・ブッダは何を発見したのか」
第二章は、思想は時代に制約されるとする中村元さんの説に対し、宮元さんは歴史背景から剥離できるから哲学だと自説を主張し、中村説はヘーゲルやマルクスの影響を受けたとする。
私は、歴史背景の影響を受けない思想は無いし、その一方で歴史背景を超えた部分もある。この部分は前者、別の部分は後者と分類すればよいだけの話で、宮元さんはこんなつまらない話に5頁を費やした。
次にゴータマ・ブッダが二人の仙人のところで修業したことについて、仙人たちの思想は
欲望の滅->行為(善悪の業)の滅->輪廻の滅(=解脱)

だとする。しかしブッダは、瞑想を止めれば欲望が戻ることに気付いてしまったので、仙人の元を去り、六年の苦行を行ひ、これを抜けたのちに仏陀になったとする。ここまではすべての人が同意できることだ。宮元さんはそれに付加し
ここにゴータマ・ブッダの天才的な発見があった。/すなわち、輪廻の究極の原因は今まで欲望であるとされていたが(中略)さらに根元的なものがまだ奥に控えている、それは(中略)生存欲であると、ゴータマ・ブッダは見たのである。
そして、その根本的な生存欲を、「渇愛」(タンハー、盲目的な生の衝動)とか、「癡」(モーハ、迷妄)とか、「無明」(アヴィッジャー、根本的な無知)とかと呼んだのである。

これは99%賛成だ。宮元さんは括弧内に補足として、木村泰賢が「無明」にこの解釈をしたのに、和辻哲郎が「無明」は「明(=智慧)」を単に否定したものと主張し、無明論争が起きた。しかし木村の急逝で何となく和辻説が正しいとされ、今日も「何となく」継承されてゐるとする。1%不賛成があるのは、これまで云はれて来た無常無我と、宮元さんの新説の生存欲の滅に違ひがあるか。
新たな解脱のメカニズムを図示すると、つぎのようになる。
根本的な生存欲の滅->欲望の滅->善悪の業の滅->輪廻(苦)の滅(=解脱)
この根本的な生存欲の滅を達成するには、完全な智慧を獲得する必要がある。(中略)そのための修行法は、瞑想の道以外にはない。ただし、もちろん、その瞑想は(二人の仙人名を略)仙人たちが追い求めていたような、「思考停止を目指す瞑想」ではなく、「徹底的に指向する瞑想」でなければならない。

ここは100%賛成だ。第2章は最後に「[付]成道以降におけるゴータマ・ブッダの瞑想について」と題して、ブッダが涅槃の時に、初禅から第四禅を経て非想非非想処定から滅想受定に至り、そのまま逆に初禅へ戻ったのちに第四禅で涅槃したことについて
初禅から第四禅までは(中略)徹底的に観察、考察を行う瞑想である。空無辺処定から非想非非想処定までは(中略)思考(感情も)停止の瞑想の境地である。滅想受定というのは(中略)完璧ないわゆる無念無想の境地のことである。

ここは賛否を控へる。なぜ控へるかと云ふと、上座部の伝統では信者が瞑想をすることは少ない。近代になって社会が複雑になるにつれ、タイのワットパクナムやそこから独立したタンマガーイ、ミャンマーのマハシーやパオなど信徒の瞑想にも人気が出て来た。
だから私自身は伝統に従ひ、瞑想そのものより、比丘にはお立場上困難な、大乗や他宗教との統合思想、唯物論を正しい方向にどう導くか、科学万能の世の中で科学に寄り過ぎたスマナサーラ長老の主張をどう伝統教義と調和させるかに興味がある。スマナサーラ長老の件は、スリランカ国内の比丘たちも進めてゐるとは思ふが、比丘なら戒律に引っ掛かることでも、信徒なら出来ることが多い。
賛否を控へるにも関はらず引用したのは、後半の
修行の完成を目指す修行者が修すべき瞑想は徹底思考型の四禅以外にはなく、思考停止型の四無色定を修するのは、修行をすでに完成し、ゴータマ・ブッダのように究極の平安(涅槃)にいたった人にだけ意味のあることだったのである。(中略)のちの仏教になると、修行途上の身の者が、思考停止型の瞑想を修するようになる。

ここは0%賛成、100%不賛成だ。まづ第四禅が阿羅漢ではなく、第四禅に達した後に阿羅漢まで長い道のりがある。第四禅になるまでも止(サマタ)と観(ヴィパサナ)が必要だ。第四禅は固定ではなく、瞑想を始めると毎回、初禅から第四禅まで進むと思ふ。或いは比丘なら前回の続きで出来るかも知れないが、俗世で生活する信徒は無理だ。

四月七日(日)第三章「経験論とゴータマ・ブッダの全知者性」とそれ以降
「ブッダ」は、素直に訳せば、「目覚めた(人)」でよいわけである。/ところが、「ブッダ」を「悟った(人)」と訳すと、そこからただちに、「では何を悟ったのか」という疑問が生じる。
これは0%賛成だ。宮元さんは第二章で根本的な生存欲と言ったではないか。それを悟ったし、それを知ったが故に目覚めた。悟りと目覚めに違ひはない。
ここからこの本は内容が低調になる。唯一まともなのは第五章の
ゴータマ・ブッダは、五蘊は自己ではないといったが、自己とは何かという質問には沈黙するのみであった。そして重要なのは、「自己は存在しない」(無我)とは一言も語ったことがない、ということである。

これは100%賛成だ。(終)

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