千二百八十五 因果、社会正義を無視した主張は嫌ひだ
平成三十一己亥年
三月二十四日(日)
テレビで午後二時から「特命おばさん検事!花村絢乃の事件ファイル2」を少しだけ見て、すぐにスヰッチを切った。あらすじは
東京地検の入口に、小学生の男の子がずる賢さうな目つきで立ってゐる。警備員がゐるから、庁舎には入れない。特命おばさん検事が出勤のため現れると、黙って後ろについて入ってしまふ。
皆から事情を訊かれ、小学生は突然検事の一人の顔を殴り、その検事は鼻血を出す。逃げた小学生におばさん検事が詳しく話を聞きだすと、父親は冤罪だと云ふ。まづ父親が殺人罪で逮捕された。釈放されたものの、処分が未定のまま月日が過ぎ、この小学生は殺人者の子と皆から呼ばれる。

ここまではよい。ところが
小学生がコンビニエンスストアで万引きし、それを店員に咎められると誤魔化すためゴミ箱に缶入り飲み物を捨てた。店員は小学生を捕まへ、殺人者の子だな、と言ったところへ、人権侵害だと別の人が殴りかかるところを、検事が間に入る。検事は殴りかかった人に注意すべきなのに、コンビニの店員に、人権侵害だと説教を始めた。

検事が店員に人権侵害だとくってかかるところでスヰッチを切った。番組とは離れるが漫才で相手の顔をひっぱたくコンビがときどきゐる。「特命おばさん検事!花村絢乃の事件ファイル2」の同僚検事二人組がこれと同じで、書類のファイルで相手の顔を叩いたり、足を踏む。脚本が出鱈目だが、スヰッチを切ったのはそれが理由ではない。
悪いのは小学生なのに、コンビニエンスストアの店員を悪者にする。因果関係を無視した脚本に不愉快だった。私がコンビニの店員なら、小学生を殺人者の子だなんて呼ばない。あくまでも缶入り飲料水を盗んだことだけを云ふ。しかし盗まれ、しかも逃げてゴミ箱に捨てたとなれば、この程度の発言はやむを得ない。刑事裁判でも有罪にはならない。
それに対して、店員に殴りかかった人は、止めなければ現行犯逮捕だ。書類のファイルで相手の顔を叩いたり、足を踏む検事も、同僚が訴へれば逮捕だ。

三月二十五日(月)
昨夜は「相棒劇場版Ⅳ」を見た。これも途中でスヰッチを切った。平和運動は尊い。ところが米ソ冷戦の終結以降、日本の平和運動は戦勝国称賛運動になってしまった。悲惨な戦争が続く理由は、戦勝国にはそれなりに利得がある。そこを批判すべきなのに、相棒劇場版Ⅳは敗戦の悲惨さだけを映像に流す。それより、そのやうな悲惨な敗戦があったからと言って、その子が50万人の前でテロを起こしてよいはずがない。

三月三十日(土)
映画.comと云ふサイトに、常連の評論家アラカンさんが私と同じ感想を書かれた。紹介すると
今回の脚本もまた,日本人に対する説教臭が酷かったのは,流石テロ朝というべきだと思った。まず,いくら自分がひどい目に遭ったからと言って,無差別に 50 万人を殺してやろうというのは,同害報復からあまりに外れた身勝手すぎる話であり,(中略)また,70 年前からの恨みを現在まで昨日のことのように生々しく持ち続けるなんてことができるのかというのが疑問であった。疑問といえば,飲食物に毒を仕込んだ場合には,一人でも苦しがる人が出れば他の人は飲み食いをやめてしまうはずなので,多数の人間全員に毒を飲ませるなんてことはできるはずもないのだが,あの連中は「せーの」で一斉に飲んだりしたのだろうかと非常に不可解に思えた。
登場人物が日本のことを指すときに,ことごとく「この国」呼ばわりしていたのもテロ朝らしくて気に入らなかった。旅行等で訪れている国を指すならそれしかないはずだが,日本人が日本のことを指すなら「我が国」であるはずである。語り手の帰属性を全く感じさせない「この国」という言葉を使う人は,何らかの理由で「我が国」と呼べない立場なのではないのかと勘ぐりたくなってしまう。何らかの理由とは,日本人ではないか,あるいは自分の日本への帰属性を認めたくないという理由以外には考え難い。

私自身は、安倍を打倒するため朝日新聞の過去は水に流したが、アラカンさんはテレ朝をテロ朝と手厳しい。

四月八日(月)
「相棒」について一言述べると、これまで高視聴率を維持してきた。だから始めのころと比べ、途中からエリート意識が出て来た。主人公にではなく制作陣に。窓際族に追ひやられた特命係に多くの共感が集まったのに、いつの間にか警察庁幹部や法務省やエリート主義になってしまった。反高級官僚と云ふエリート意識もある。全体をまとめればマスコミ業界のエリート意識とも云へる。それが噴出したのが今回の劇場版相棒だった。

四月九日(火)
私のホームページは社会主義志向がある。これはかつて日本の第一野党は社会党だったし、第二野党の地位を争ふ公明党と共産党も、それぞれ人間性社会主義、マルクスレーニン式の社会主義を掲げ、第四野党の民主党は民主社会主義だから、つまり自民党以外はすべて社会主義だったから、その時代の流れを踏襲した。
とはいへ、社会主義は時代遅れになったため、私は最近では自然経済と云ふやうになった。今の資本主義は、株式の原理に寄る人間の良心を殺す経済だからだ。私が社会主義を志向するのは、経済が理由ではない。資本主義は不正直な人が栄へる世の中だからだ。正直な人が損をしない世の中であるなら、どんな経済でもよい。だから最近は自然経済と云ふやうになった。(終)

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