千二百八十一 大法輪閣編集部編「違いと特長でみる仏教」第一部を読んで(読み終って井上ウィマラ批判になった)
平成三十一己亥年
三月二十一日(木)
「違いと特長でみる仏教」と云ふ書籍がある。第一部は日本の仏教と原始仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、中国仏教、韓国仏教との違ひなどを十一人の著者が分担し、有益な情報がある。
第一部の第一節は「大乗仏教と原始仏教」と云ふ題で
「大乗」に対するものは「小乗」ですが、自分たちの主義主張に合わないものを「小乗」として切り捨てる態度は、まさに「大乗的」ではありません。

著者は東洋大学名誉教授の菅沼晃さんだ。よいことを云ふ。

第二節は「ヒンドゥー教と仏教」で
ヒンドゥー教では、最高神というものを立てます。これに対して、仏教では(中略)神々は仏教の守護者として位置付けられます。(中略)神々はけっして嘘をついたりなどの悪業を為すことはないとされますが、それは(中略)自由意思によってそうするのではなく、宿命的に(自動的に)そうするようになっているのです。(中略)神々は、前世に人間であったときに積んだ善業の果報をひたすら食いつぶすだけの存在でしかないのです。

著者は國學院大學教授の宮元啓一さんだ。この内容に必ずしも賛成ではないが、神々がゐると考へることは重要だ。世の中に自分と周囲と物質しかないと考へて瞑想を行っても、禅定や解脱が得られるはずがない。

第三節は「ジャイナ教と仏教」で
仏教にも放生会という儀式があるにはあるが、(中略)仏教は寛大に、現実的にという態度が見られ、一方、ジャイナ教は厳格に物事を処すという態度が見られ(中略)このことが、仏教がインドを離れ、外国で大成功を収めた理由の一つであろうし、一方、ジャイナ教はインドに留まり、古代の宗教の姿を今に伝えている理由であろう。

これは賛成だが、この理由により仏教の信者は平時ではないとき(例、イスラム教の進入)には比丘を支へるどころではなくなり、一方で現世利益信仰や自身が修業する宗教は生き残ったのかと考へられる。著者は渡辺研二さんだ。

第四節は「日本仏教と南方仏教」で、最初から6行目に突然
私の親戚のおばあちゃんは百四歳で大往生した人でしたが、毎朝家の仏壇と近所のお地蔵さんの前で『般若心経』の読経とお線香を欠かさない人でした。(中略)私はビルマ、タイ、スリランカで南方仏教を修行しましたが、いずこにおいてもおばあちゃんと同じように祈る人々の姿がありました。

これはひどい駄文だ。書籍はお金を払って買ってもらふ。だからこんな汎用性のない話を載せて、読者の目を穢してはいけない。著者は誰かと見ると、井上ウィマラだ。ミャンマーで出家し、信者の善意に九年間支へられながら還俗した。ミャンマーでは一時出家がさかんだが、還俗したあとは信者として仏教を支へる。だから短期間で還俗しても許される。
井上ウィマラは還俗ののち、ギターを使った歌ふ瞑想など、仏道とは無縁のことを続ける。仏道には比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆がゐる。ウィマラはいったいどれだ。どれでもないくせに比丘のふりをして一般人を惑はす。仏道の上から許されない行為だ。
あるとき、民間では聖者だと崇められている高僧の直弟子さんとお話する機会がありました。「あの先生は本当に阿羅漢だったのですか?」と尋ねると、「いや、先生は菩薩の請願をお建てになっておられました」という返事がありました。

まづ阿羅漢かどうかなんて質問をしてはいけない。次に、菩薩とはブッダの前世の意味だが、大乗の仏道では僧侶や信徒も菩薩を目指すことがある。上座の高僧が、後者の意味で使ふとは考へられない。ウィマラは詳細を訪ねるべきだった。それなのに
日本仏教では、「すべての衆生を救うまで自分は悟りを開かない」という精神で菩薩業に励む人々が僧俗を問わず多くいます。

私は今までに、さういふ人に会ったことがない。熱心な僧侶や信者は多い。しかし「自分は悟りを開かない」と云ふことは、本人が決断すればいつでも悟りを開ける自信があることだ。そんな傲慢な人には会ったことがない。だいたい、ここで云ふ「日本仏教」「僧俗」「多くいます」は上座を信じる人か、それとも大乗を信じる人か。

第五節は「日本仏教とチベット仏教」で
現在、ゲルク派はチベット仏教の主流であり、特に内モンゴルの寺院はほとんどすべて、改革派に属しています。

これは有益な情報だ。また
転生活仏の信仰は特に内外のモンゴルで盛んで、清朝末期には活仏が二百四十三人も出現したといわれます。現在も各寺院に活仏の系譜があり、文化大革命によって寺を追われ、還俗して医者になったり、公務員になったり、中国共産党の地区委員になったりしても、転生活仏と認定された者はいまでも「活仏」として人々の尊敬を受けています。

これはどうか。寺を追はれた人が社会で活躍できることはすばらしいが、僧侶ではない人が活仏だと俗的過ぎないか。しかしこれは遠く離れた日本での感想だ。現地の人たちの習慣は尊重すべきだ。著者は菅沼晃さん。

第六節は「日本仏教と中国仏教」で、清朝末期の浄土宗の僧が考案した
「仏七」は、称名念仏と坐禅瞑想とを組み合わせた修行方法である。(中略)念仏は「南無阿弥陀仏」の六字名号と「阿弥陀仏」の四字名号をゆっくり唱へる。その後、観想のための坐禅をするのが基本的なパターンである。

次に禅七もあり
終日、坐禅瞑想を行なう修行である。(中略)中台禅寺の「禅七」は基本は入息出息観であり、時には話頭(わとう)も使用される。

話頭とは日本の禅宗系で云ふ公案のことだ。結論として
日本の仏教との最大の相違は、心の観察を主とした修行実践がよく行われているかどうかの一語につきる。

その原因は
平安時代初期、桓武天皇が仏教教理の研鑚を積むことを仏教界に課したところに淵源すると考えられる。

著者は東京大学教授の蓑輪顕量さんだ。

第七節は「日本仏教と韓国仏教」で
韓国の場合、国民の約四分の一はキリスト教信者、同じく約四分の一が仏教信者である。

そして
韓国の場合、葬式・法要は基本的に儒教の方式で行うため、基本的に仏教が葬式に関わることはない。

次に
十四世紀末に成立した朝鮮王朝は儒教(朱子学)を国教と定め(中略)仏教を抑圧した。そして宗派も禅教二宗に統合され、のちには禅宗だけが伝えられることとなった。

なるほど曹渓宗しか存在しないのは、これが原因だった。著者は佐藤厚さんだ。

三月二十三日(土)
書籍はここでコラムがあり「瞑想と坐禅の違い」と題し、井上ウィマラが書いた。これがまたひどい内容だ。
「坐禅は坐って行う瞑想であり、瞑想の重要な根幹部をなす」といえるでしょう。

瞑想も坐って行ふのが根幹部だ。歩く瞑想、寝る瞑想もあるが坐るのが根幹だ。一方の坐禅にも経行と云ふ歩く動作があり、足の疲れを修復するのが一番目の目的ではあるが、瞑想も二番目の目的とする。人によって足の修復が80%、瞑想20%など違ひはあるが、足の修復100%の人はゐない。修復だけが目的なら、立ち上がったり柔軟体操をするほうが効果的だ。
坐ることを根幹部とするかどうかが坐禅と瞑想の違ひではないことは井上も判るらしく
坐禅で養った心持ちを日常生活の隅々にまで鷹揚してゆく実線が最終目標となりますから、そこまでゆくと坐禅と瞑想を区別することは極めて難しくなります。

それならここに至るまでの文章は無意味になる。そればかりではない。三ページのコラム全体が無意味になる。さうしないためにも、瞑想と坐禅の違ひを冒頭できちんと書かなくてはいけない。私なら
ブッダが始めて二千五百年続くものが瞑想、菩提達磨が南北朝の宋国に来て千五百年続くものが坐禅。しかし坐禅のほうが短いからと言って、劣ると云ふことではありません。千年後に状況の変化に合はせて菩提達磨が伝へたものです。

と答へる。修業には伝統が必要だ。有名な先生に「昨夜思ひついた」と云はれても、本当に正しいのか疑問を持つ。しかし二千五百年や千五百年続いたとなると、信用できる。別の分け方で
修行の一つとして実践するものが瞑想、修行全体として実践するものが坐禅

と分ける方法もある。瞑想の前に仏像に三拝し、パーリ語のお経を唱へる。比丘は戒律を守り、托鉢に行き、お経の学習をする。それに対し坐禅ではお香、読経、作務、衣は悟りとは無関係とする。道元はさう書いた。それなら道元はなぜお香、読経、作務、衣を用ゐたのか。それを掘り下げるのがコラムの著者の役割だ。井上は続けて
瞑想という言葉はメディテーションの訳語として使われています。メディテーションの語源には(中略)意味が含まれます。宗教は、それぞれに独自の瞑想法を持っています。

これは間違ってゐる。我々が瞑想と言った場合、それはブッダが唱へたものだから、パーリ語、サンスクリット語、場合によっては漢訳した文の意味から探索しなくてはいけない。英語の語源を探しても無意味だ。宗教はそれぞれ独自の瞑想法を持ってゐると云ふが、これは間違ひだ。仏道でさへ日蓮系や浄土系は瞑想法を持たない。私自身は、すべての宗教の違ひは瞑想法の違ひだとするが、井上はさういふ文脈で書いてはゐない。
次の問題点として、判り易く書くことは、お金を払って本を買ってくれた読者への著者の務めだ。それなのに井上は
戒(シーラ)・定(サマーディ)・慧(パンニャー)の三学という区分法では、瞑想修行を三昧と智慧の二つに区分します。

これはわざと文章を難しくしたとしか考へられない。ずいぶん読者を馬鹿にしたものだ。まづ、三昧とはサマーディのことだと判らないと、この文章は理解できない。同じやうに智慧とはパンニャーのことだと判らないと、理解できない。
上座部仏教では三昧と智慧を明確に区別しますが、大乗仏教になると両者の働きが禅定に統合され、三昧に智慧を含めて解釈するようになります。

上座の瞑想法も、タイでは伝統方式のほかにワットパクナム、その分派のタンマカーイがあり、ミャンマーにも伝統方式のほかにマハーシが有名だが、少数派のパオもある。三昧と智慧を明確に区別と云っても、一体どの瞑想法の話だ。次に、大乗では禅定に統合されると云ふが、どの宗派の話だ。大乗でも戒定慧の三学は重要だ。(終)

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