千二百七十 私の瞑想観
平成三十一己亥年
二月八日(金)
今月はトゥ・ミンガラ比丘がミャンマーに帰国されたため、経典学習会が延期になった。代はりに、私の瞑想観をまとめてみることにした。
まづ瞑想をする人の年齢、経験に依って、関心事が異なる。私の場合、長いことサマタ(止)に関心が強かった。ところが昨年からヴィパッサナ(観)にも関心が向くやうになった。
これは丁度、ソフトウェア技術者が最初はプログラム言語に興味があり、システム設計には無関心だが、年月を重ねるにつれてシステム設計に興味を持つやうになることに似てゐる。
ヴィパッサナにも関心が向くやうになったとは云へ、その対象は体内の様子など輪廻の停止、苦集滅道の理解に関するもので、数を数へたり、筋肉の動作を意識することには関心が向かない。呼吸はサマタに含めてゐる。だからスマナサーラ長老やクムダサヤドーの瞑想指導を何回かは聴けても、長続きしない。
呼吸や数を数へたり体の動作を意識することは、気付きの能力を高めるためだ。気付き能力は個人差が大きい。この能力が高いほうが優秀と云ふ訳ではない。おそらく世間一般より少し高い気付きが、社会では成功する。
最近になって判った事だが、私は気付きがずいぶん高い。先日東京タワー駐車場で台湾祭2019が開かれた。ところが行列が長く、入場をあきらめた。普通の人は数行で終る。ところが私はこの件でホームページを2つ(その1その2)書いてしまった。
だから私のヴィパッサナ瞑想は、気付き能力を高める事ではなく、輪廻の停止、苦集滅道の理解に関することに集中する。

二月十六日(土)
「衆生本来仏なり」は白隠の名言だ。これは江戸時代の発言だから美しい。地球を破壊し、野生生物を大量絶滅に追ひやる現代の私たちが、この言葉を使ってはいけない。
人間の体は不浄なものだ。これは上座の仏道だけではない。大乗の仏道でも大智度論、摩訶止観に書かれ、それを絵にした九相図もある。人間は悪魔だし地球の癌細胞だ。そのことを西洋野蛮人どもに教へてあげるとともに、今後の地球をどうするかは、アジア、アフリカ、中南米、西洋が話し合って決めるべきだ。
衆生には本来一切の動物が含まれる。野生の動物のうち肉食動物が仏の訳はない。しかし肉食動物より更に悪いのが現代人だ。

二月十七日(日)
苦がアートマンとなり輪廻する。苦を滅すれば輪廻は止まり涅槃になる。これは強力な瞑想法だ。
苦集滅道のうち、苦と道は名詞で、集と滅が動詞なのは変だと思ってゐたが、人生は楽だと思ってゐるが実は苦で、苦の原因が輪廻を生み、苦を滅すれば輪廻が止まる。かう解釈すればすべてが動詞になり整合が取れる。しかしこの理論はパーリ語、サンスクリット語の確証が取れてゐない。後世の研究を待ちたい。
ブッダが法を説きはじめると、多くの比丘、比丘尼、優婆夷、優婆塞が生まれた。その速さから、瞑想を実施すれば阿羅漢が続々と誕生したと推察できる。比丘、比丘尼になれば半分は阿羅漢に、残り半分も三果四向になったと思ふ。ブッダの瞑想法は、布教の速さから考へて難しいはずがない。(終)

再開三月二日(土)
瞑想をサマタ(止)とヴィパッサナ(観)に分けることが流行してゐる。しかしこの瞑想法はサマタ、あの瞑想法はヴィパッサナと分類することはできない。強いて分類すれば、例へば「数息観はサマタが60%にヴィパッサナが40%」のやうに分析することはできる。すべての瞑想法は、心の安定と気づきの両方の作用を持つ。

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