千二百十五 ミャンマー経典学習会
平成三十戊戌
十月十八日(木)
14日の経典学習会はトゥ・ミンガラ比丘によるダンマパダ(法句教)76、77偈だった。久しぶりに本堂ではなく戒壇で行はれた。トゥ・ミンガラ比丘の法話は、日本語で講演する練習を兼ねる。法話を聴聞することと比丘の日本語練習の協力と二重の功徳がある。あとお寺にお布施をするのでその功徳もある。
この日は私にとり中板橋駅で通常に下車する最初の日となった。今までも、一番最初に来たときの往路と復路、ミャンマーから高僧が来日されたときの復路は中板橋駅を用ゐたが、通常に使用するのは初めてになった。
今までは通勤定期券が渋谷側から地下鉄の新宿三丁目だったので、長いこと千川駅で降りてあとは歩いた。昨年辺りから小竹向原駅を使ふやうになった。これは急行が停車するためだ。
中板橋駅からお寺に向かふと、ミャンマーの伝統衣装を着た女性3名とすれ違った。お寺の前では、おそらく近くのアジア食材店或いはコンビニへ買ひ物に行くのであらう伝統衣装の女性数名とすれ違った。本堂は、信者二名の誕生会があるさうだ。
十月二十一日(日)
ダンマパダ76偈は、自分の罪過を指摘してくれる聡明な人に会ったら付き従へ、と云ふ内容で、これはラダ長老の逸話だ。年老いた寺男のラダは比丘になりたかったが、誰も勧めなかった。ブッダが神通力で世界を見渡すと、ラダは阿羅漢への可能性があることを知った。ブッダがラダのところへ行き、僧院は彼の出家を望んでゐないことを知った。ブッダが比丘全員を呼び、この老人の善行を尋ねたところ、サーリプッタ長老は、この老人がスプーン一杯のご飯を供養してくれたことを思ひ出した。そして老人は出家し、サーリプッタ長老が老比丘を指導し、老比丘も指導に従ひ、数日のうちに阿羅漢果になった。
質問が幾つか出て、私も預流果などを経ないで阿羅漢果になったのか質問し、直接なったとの答だった。そのときは気付かなかったが、今このページを書いてゐると、阿羅漢果になるのは一瞬で、なれない人の救済策として一瞬のうちに一来果や不還果になるのではないかと思った。もし一段階づつ上がるとすると、それは主任から係長になって、と云ふのと変はらない。それだと修行者の負担を増す。救済策としてあるとすればブッダの慈悲を感じることができる。
十月二十一日(日)その二
77偈は、他人を教へさとし宜しくないことから他人を遠ざけよ、さうすれば善人に愛され悪人から疎まれる、と云ふ内容だ。アッサジ比丘とプナバスカ比丘とその500人の弟子が、花や果樹を植へて生活の資にした。これは戒律に違反するのでブッダは二大弟子を送り、戒を守り信者の信し寛容を壊さないやう伝へた。
寛容とはお布施をしてくれることと云ふ解説があった。戒についてパラジカ(僧団追放)、サンガディセーナ(僧残)などの説明もあった。パーチッティヤ(波逸提)の説明で木を切ると神が住む、神木。この話が印象に残った。
十月二十一日(日)その三
終了後に、一階でお茶会を開いた。比丘への食事のお布施、及び誕生会で余ったご飯、豆カレー(からくない)、ビーフカレー(少しからい)、野菜、コーヒー味のゼリー、リンゴと梨の中間を頂いた。
マハーカルナさんの批判がかなり出た。お茶会の参加者のうち、パオ瞑想と無縁なのは、ミャンマー語を勉強する主婦の方と私だけだから、仕方がないことではあるが。この女性は学習会終了後に時間が経ってからお茶会に参加し、肩から布を着けたから信者の戒を授けてもらったのだらう。
私はクムダセヤドーが来日したときの瞑想会に4回参加したが、上座部の長老の指導と云ふことで参加し、関心も、在日ミャンマー人が小さな団扇2つで扇いだり、女性信徒が肩から布を着けたり、そのうちの一人が経行をし、パオでは経行をしないから興味深かった、など関心があるのはパオとは無関係のことだった。
今回大きな収穫があった。6年前に来日された高僧はマソーイン僧院長(ウ・コウィダ・セヤドー)だった。経典学習会を早めに終はらせ、セヤドーの法話を一階でチョウチョウタイさんに通訳してもらひながら聴いた。在日ミャンマー人は本堂に集まったが、テレビで一階にも放送された。終了後に、我々日本人グループ5人くらいも別個に比丘居住階でお話を賜ったことを思ひ出す。(終)
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