千二百十二 山下良道さんと藤田一照さんを論評
平成三十戊戌
十月十一日(木)
山下良道さんの本は10割反対だらう。さう思って「青空としてのわたし」を読んだところ、予想どほり読むべきところが無い。しかし一つ賛成のところがあった。パーリ語の正しい発音を身に付けるためにスリランカに行ったと書いてある。これは熱心なことだ。この時点で1割賛成9割反対に変化した。
前に少し触れたが、私が山下さんを嫌ひな理由は、ミャンマー人の仏法への純粋な信仰を「笑っちゃいますよ」と小馬鹿にしたからだった。それが少し改善された。
十月十三日(土)
もう一冊「<仏教3.0>を哲学する」を次に読んだ。この本も「青空としてのわたし」と同じで読むべきところが無い。この時点で1%賛成99%反対になった。
2冊の本が空虚な理由は、最初に出版された本を読まなかったためだらう。そこで市立図書館には無い「アップデートする仏教」を読みに、国会図書館に行った。この本は読むべきところがたくさんあった。第一章では山下さんの
競争に勝つためには人を蹴落とさなきゃいけない。(中略)拒否反応が出てしまったのです。
或いは
学校というのは(中略)宗教施設なのではないか?(中略)宗教である以上教義があるわけで、それは「幸せというのはいつも未来にあるのだ」という単純な協議。(中略)いつも馬の鼻先にニンジンをぶら下げて、一生懸命前に向かって走らせようとしている。
これに追加して藤田さんが
あともう一つ教義があるとすれば、すべては競争だという教義かな。「(前略)負けたら終わりだ」という教義。
ここまで賛成だ。近代と云ふ異常社会に於いて、宗教は近代の行き過ぎを停止させるものでなくてはいけない。第一章は山下さんと藤田さんに、賛成10割。
十月十四日(日)
第二章はアメリカが優れて日本が劣る話で、山下さんと藤田さんはアメリカ滞在が長い。アメリカへは新たに曹洞宗などが入ったから、そこには魅力が無いと広まらない。また、長い年月を経過した訳ではないから組織の堕落もない。その辺りの分析と、日本の今後の改善点、アメリカの活動は日本より優れるとは云へその問題点を指摘しないから、単なる自慢話になってしまった。
藤田さんと山下さんは、自分たちを自慢はしてゐないと云ふかも知れない。しかし海外に住む、或いは海外を読者よりよく知る人たちが海外を称賛すると、それは自分たちの自慢話になってしまふ。双方の問題点、改善点の指摘が重要である。
十月十四日(日)その二
第三章はまづ、マインドフルネスから始まる。山下さんが
・マインドフルネスという英語は、「サティ」というパーリ語の翻訳です。
・ティク・ナット・ハン師もまったく同じ立場です。
・「正法眼蔵 八大入覚」というものがあって、(中略)その五番目が不忘念ですね。
・お箸の並べ方も全部決まっている。(中略)「マインドフルネスを養うため」
最後の「お箸の並べ方も全部決まっている」は曹洞宗では、禅堂への入堂方法、席の着き方、便所の入り方などすべての動作を形どほりにして注意を集中することにより念(サティ)を得る方法だ。これ自体は正しい。日本人には一番合ふ方法だ。それに対し藤田さんが
・形だけで精神が失われてくる。
・曹洞宗は一応は、「一仏両尊」と言って、(中略)お釈迦さまのことをそういう形で尊敬はしてるけど、教えとしては道元禅師より以前には行かない、ということがあるね。
・曹洞宗には「宗乗」と「余乗」という言葉があるのですよ。宗乗というのは曹洞宗の宗学のことですね。それ以外は余乗と言うんですよ。(中略)ブッダの教えは余りのほうに入っちゃう。
もし一仏一尊だったら、道元禅師より前には行かないから、大変なことになってしまふ。しかし一仏両尊だから、それは永平寺と総持寺の力関係で制定されたとしても、道元禅師が絶対とはならない。曹洞宗は中国の曹洞宗も研究するし達磨大師も研究する。一仏両尊は本尊配置の問題だ。宗学とは関係がない。今後、曹洞宗のすべきは、これまでは建前であった釈尊から現在に続く法脈を重視して釈尊から達磨大師までの著述を研究することだ。それには南伝大蔵経も含まれる。
十月十四日(日)その三
ここで対談は、パオ瞑想法に入る。ミャンマーの瞑想にはマハーシ、ゴエンカ、パオがあり、ゴエンカを除く二つは従来の上座部に組み込まれ伝統的な比丘と共存してゐる。私自身は伝統的な上座部を学ぶのだが、たまたまパオ系の瞑想を修行する日本人信徒が多いのと、パオに限らずこれらの瞑想が新しい時代の上座部の活性化に役立つので、これらの人たちに賛成だ。しかしパオを本格的に修行したもののその後は離脱した山下さんとは、かなり相違があるはずだ。
・『ヴィスッディ・マッカ』に書かれている瞑想法がほとんどその「パオ・メソッド」というパッケージの中に入ってるんですよ。(中略)四十種類のサマタ瞑想が説かれています。たとえば呼吸の観察、慈悲の瞑想、自分が白骨化した様子を観想する、自分はやがて死ぬということを観想するとか(以下略)
・呼吸に気づくことで思いが手放されると言われても、何かすっきりしない。
・ヴィパッサナー瞑想で(中略)ナーマ(精神的なもの)とかルーパ(物質的なもの)を観察するのです。アビダンマ(仏教哲学)にある通りに、一つ一つ丁寧にそのナーマやルーパが生じて滅する様子を見ます。ナーマもルーパもともにアニッチャ(無常)であり、ドゥッカ(苦)であり、アナッター(無我)という本質があることを理解します。
・普通は、ヴィパッサーナというのはこのようにすべての現象が「無常、苦、無我」であることを観察することだと理解されていますが、実はそれはまだヴィパッサナーが最終的に目指すところではないんです。(中略)もう一歩進めて、ナーマとかルーパ、つまり精神的なものや物質的なものが生じない世界に入っていくことが究極の目的なんですよ。
私自身は、曹洞宗式に座ることが止、呼吸や白骨や体内を観想が観だと思ってゐるから、パオ瞑想とはかなり異なる。 藤本晃さんと云ふ浄土真宗の住職だったがスマナサーラ長老に近いため宗務所から圧力があり浄土真宗系単立寺院に独立した人がゐる。その人の書いたものに呼吸観察はサマタ(止)だとあるから、スリランカでも同じなのだらう。僧侶に瞑想系と非瞑想系がゐるやうに、信徒にも両方がゐて、非瞑想系の信徒は私くらいがよい。
十月二十一日(日)
第五章は、まづパオ瞑想の成功率は1%だと云ふ。これは変だ。もしそんなに低いならパオ瞑想が広まるはずはない。失敗する理由について
セヤドーが言われるのは、一つはカルマについてです。「パラミ」という言い方をするんですけれども、波羅蜜ですよね。(中略)もう一つは(中略)努力が足りないからだと言われます。
これだけ読むと、教へ方が悪いことになるが、ミャンマー人と西洋人では考へ方が異なる。ミャンマー人と日本人は西洋人ほとではないにしても、やはり考へ方が異なる。だから西洋人と日本人の上座部仏法僧が必要だ。山下さんは日本で待つ人たちと、ミャンマー人の善意に期待されたのに、それを裏切った。
メソッドは『ヴィスッディ・マッガ』通りなのだから、それが間違いであるはずはないのです。ビルマで『ヴィスッディ・マッガ』を疑う人はまず絶対にいないから。(中略)セヤドーとしては「頑張れ!」と言うしかない。
これもミャンマー人と外国人の違ひが一つ目の原因だが、もう一つ、上座部の僧侶で瞑想の修行だけをしたい人はそれほど多くはない。お寺には村や街中の寺、学問寺、瞑想寺がある。一時出家者は短期で還俗する人が多いし、長期に亙る比丘は1ヶ所に留まるのではなく、別の種類のお寺に移動することもある。外国人が瞑想だけを目的に出家しても、それは上座部の仏法を永続させた伝統とは外れたことになる。
パオ・メソッドでは(中略)光が現れてこなきゃダメなんですよ。(中略)パオ・セヤドーをはじめとするビルマの人たちは非常に素直だから、「見なさい」と言っても問題は起きないんですよ。
これなぞは、瞑想法の中にもパオ、マハシー、ゴエンカなどいろいろあることを無視してミャンマーの指導法を批判してゐる。合はない人は別の方法を試せばよいし、学問僧、村の僧として修行する方法もある。そもそも山下さんは平成七(1995)年に
こころや身体の消滅が終わる。そんな世界に本当に入れるのかというと、そこがテーラワーダ瞑想のすごいところで、(中略)そう誰もが。ひとにぎりの瞑想の天才ではなくても。
と言ってゐる。「誰も」から「1%」に格下げするその変質ぶりには驚く。
十月二十一日(日)その二
山下、藤田両名の書籍や雑誌の記事を、上記のほかにも何冊か読んでみて、唯一よかったのはサンガ誌19号に山下さんがティック・ナット・ハンから聴いた言葉として
具足戒の復活だとおっしゃったのです。
これは貴重な言葉だ。伝教大師が具足戒を廃止したのは、表面を守るのではなく内面から守らうとすることだった。日本の仏道で戒律が本当に崩れたのは明治維新のときである。(終)
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