千二百一 中村元さんの思想遍歴を中村元選集第12巻「原始仏教の成立」から読む
平成三十戊戌
九月二十二日(土)
昭和四十四(1969)年に出版された中村元選集第12巻「原始仏教の成立」を読んで、中村元さんの思想遍歴を感じた。当時の日本は欧米に及ばない非先進国(今から思へば、地球破壊行為が進まない国)の意識だった。だから国際意識も低く、昭和二十五(1950)年に第一回世界仏教徒会議がコロンボで開催され小乗仏教と云ふ語を使用しないことになったのだが、国内がこれに従はなかったとしても仕方がない。
昭和二十五(1950)年以前から活躍した学者は、それまで小乗仏教の語をずっと使ってきた。中村さんもその一人だ。だからそのこと自体は問題ない。それより日本が反省すべきは、欧米、ことにアメリカにのみ目が向いてゐた。中村さんはサンスクリット語やパーリ語が専門だから、さう云ふことは無いと信じたい。
第12巻を読んで感じた中村元さんの思想遍歴とは、この当時はパーリ語の経典を原始仏教としてゐる。漢訳の経典にも共通の経典があるから、これは当然のことだ。

九月二十三日(日)
中村さんの書籍は得ることが多い。
ゴータマは自分のもとに集まった人々のことを「わが人」(ma-maka
、a-はaの上に-)と呼んでいる。(中略)「教えを聞く人」(sa-vaka)というときは、出家修行者を意味することもあったが、また在俗信者を意味することもあった。
以上から、中村さんは次の結論を出す。
仏の弟子(anteva-sin 徒弟)という表現が最初期の仏教には見当たらない。[この点はジャイナ教の場合も同じである。]

中村さんは、古代末期や中世のギルドの構成に対応させて起きたのか、と疑問を投げかける。
教団が発展して、教団の権威が確立すると、出家修行者は在俗信者に対して、一段と高いところに立つようになる。(中略)しゅっけした弟子たちのうち、男性の修行者はビク(bhikkhu 比丘。修行者のこと)と呼ばれ、女性のそれはビクニー(bhikkhuni 比丘尼。尼僧のこと)と呼ばれた。いずれも「乞う人」の意味である。

ここで注目すべきは、戦後のミャンマーではウーヌー首相の提唱で国民に瞑想が浸透した。タイでも在俗信者の瞑想に一定の人気がある。これらが上座部の仏法の伝統と合ふのか不明だったが、ブッダの時代に合ふことが判る。

九月二十三日(日)その二
仏法僧の三宝について
釈尊の人格を慕って集まった人々は、各地に小集団を形成した。

中村さんがかう主張する根拠は不明だが、これはあり得る。現代人は私もさうだが、最初は集団が一つでそこから根本分列や部派に別れたと思ってゐる。しかし通信手段のない中で各地を遊行すれば、あちこちに小集団ができる。
かれらは森の中に集まって教えを聴聞し修行し(中略)かれら自身の教団のことをただ『集り』『群れ』『集会』と呼んでいただけにすぎなかった。(中略)同様の事情にあったジャイナ教徒が「ガナ」(gan.1a
、.1は文字の下に点)という語を特に教団名に採用するようになったのに対して、仏教では、後には特に「サンガ」(san.2gha
、.2は文字の上に点)という呼称を好んで用いるようになった。
中村さんは、サンガに属するより、それから離れて一人で修業することを勧めた事実を挙げ、結論として
サンガ(教団)というものは、仏教にとって本質的なものではなかった。サンガを含めて<三宝>というものを考えるようになったのは、のちの発展段階においてである。


九月二十四日(月)
ゴータマ・ブッダの生存時から、広大な地域で師と緊密な連絡を取ることが不可能だったことから
最高権威をもった全教団の統率者が順次に相継ぐということは、インド仏教においてはついに起こらなかった。

昭和四十四年に出版された時代背景を考へると、創価学会、立正佼成会などが会長に最高権威を持たせたことへの警鐘と考へられる。創価学会が所属した大石寺の法主も含まれる。
大石寺と創価学会については、短期間(創価学会の推定では昭和五十年代)にすべての国民が信者になるのなら、それは許容される。すべての国民には他宗他教の僧侶神主牧師神父等も含まれ、これらの人々は納得して信者になるからだ。これまでの経験を生かすためにも、大石寺で出家し直してそれまでの経験に応じた役割を果たしてもらふことにならう。
しかしすべての国民を信者にすることができなかった。それまで短期間だから無理な布教や法主の強権(実際に強権になったのは昭和三十九年辺りから)が許されたが、短期間にできないならやってはいけない。戦前の戒厳令に国民が従ったのは短期間で解除されるからだ。何年も続いたら国民の不満が爆発する。それと同じだ。

誰か一人が狂熱的な演説をぶつと他の人々が興奮して激動を生ずるというのではなく(以下略)

もそのことを示す。あとこの節で注目すべきは
出家修行者の間ではさらに三宝に<戒しめ>(si-la)を加えて「四法」を尊重するという習わしも成立した。

更に重要なのが
『戒しめを身にそなえたビクと学問あるビクニー、信仰ある在俗信者と信仰ある在俗信女--これらは実にサンガを飾る。けだしこれらはサンガの飾り(san.2ghasobhana)なのである。』

在俗信者と在俗信女はサンガの構成員である。続いて
のちの仏教においては右の四衆の外に沙弥・沙弥尼・学法女を加えて<七衆>を数える(以下略)

比丘尼は絶えたから再現は不可能だが、ミャンマーではサヤレー、タイではメーチーとして尼僧に準じる修行者がゐる。僧院に居住し僧籍証明書も発行されるから実質は比丘尼と変はらず、不満も出ていないので、それはよいことだ。学法女との伝統を考へることができる。シッカマーナーとも呼ばれる。
『(前略)家ある者(中略)は幸せな人(sugata)をたのみ、真人を信じ、すぐれた知慧もて禅思し、善きところに赴く道である法をこの世において行ない、天の世界においては歓喜し、欲するものを得て悦ぶ。』

天の世界はバラモン教から受けて
仏教に取り入れられて発達し、やがて浄土教の起原となるものである。

中村さんは、この小乗仏教の語を用ゐるが、この当時はまだ昔からの習慣があり、仕方のないことだ。しかし現在使用することは許されない。

九月二十九日(土)
初期の仏教集団は、具足戒がなかった。しかし
婦人関係については「異性と交わるな」とはっきり規定している。しかしこれは当時の修行者にとってはあたり前の教えであるので、(中略)修行者たちは厳重な戒律を守っていた。

上座部の比丘たちは戒律をきちんと守ってゐる。タイやミャンマーで出家した人が日本に帰国すると、戒律を守ることが難しくなる。守れなくなったら還俗すればよいのに、上座部仏教ではなく原始仏教の比丘だと嘯いたり、還俗したことは曖昧にして大学教授の肩書でギターを使った奇妙な瞑想を教へる例を見聞したので、中村さんの書かれたこの部分は貴重だ。守れない人が比丘のふりをして信徒を指導してはいけない。

このあと第13巻を平行して読んだ感想だが、並川孝儀さんの云ふことは、既に中村さんが昭和44年に書かれてゐる。中村さんが上座部の仏法に敬意を表しながら、原始仏法では時間経過があるからかうだったと書かれるのに対し、並川さんは大乗仏法の非仏説を誤魔化すため、上座部仏法の悪口を云ふ。大乗仏法の非仏説を問題にする人はほとんどいないし、問題を解消しようとするなら大乗仏法が自力で努力すべきだ。上座部仏法を批判して誤魔化すことは許されない。(終)

全宗教(百七十三)全宗教(百七十四の二)

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