千二百二 塞翁が馬、前提として正しい判断が必要だ
平成三十戊戌
九月二十三日(日)
たまたま或るマスコミの記事を見て、「塞翁が馬」をまったく考へてゐないと思った。結果だけで一喜一憂してゐる。ここまでが先週の観想だった 。
本日この特集を書くにあたり、塞翁が馬の前提として、正しい判断が必要だと思った。悪くなったときに、次の判断が悪いと更に悪くなり、塞翁が馬の逆になる。
更に、期待値を考慮しなくてはいけない。うまく行ったときは、次の期待値が高い。悪く行ったときは、次の期待値が低い。つまりうまく行ったときは判断に多少の誤りがあっても、塞翁が馬とならない。
更に考へた。標準偏差が大きいと、期待値の差を無視できる。標準偏差が小さいと、期待値の差は大きい。つまり標準偏差が小さいと、塞翁が馬に届かない。
以上、塞翁が馬を論じるときは、三回逆転させなくてはいけない。二回奥を考へた人とは、議論しても話が合はない。一回奥を考へた人とは、結論は同じに見えて内容がまったく異なる。

九月三十日(日)
日本の歴史で、塞翁が馬の典型はどれだらうか。織田信長は、最初に勝ち過ぎた。だから後半は傲慢になった。桶狭間や姉川でほどほどに勝てば、叡山焼き討ちや長島の合戦はなかったし、本能寺の変も無かったと、まづ考へた。
幕末に長州は、蛤御門の変で大敗し、第一次長州征伐では三家老を切腹させたから、これが討幕の起爆剤になった。ほかにも源義経が勝ち過ぎて、兄と不仲になった。平清盛は平家一門の権力が強くなり過ぎて、凋落も早かった。歴史には幾らでも事例がある。

これらを次々に考へるうちに、別の思想が浮かんだ。或る分野で負けても、別の分野で勝利することが塞翁の馬ではないか。例へば権力闘争に敗れたが商売で成功しただとか、商売に失敗したが芸術で名人になったなど。
この定義だと、信長が勝ち過ぎて後半傲慢になったのと、長州が大敗し過ぎて討幕の起爆剤になったのは、同質での挽回だから塞翁が馬ではない。ここで、また新たな思想が出て来た。何があっても諦めないことが、塞翁が馬ではないか。逆転するのは同質のことでも、別のことでもよい。
話を出発点に戻すと、或るマスコミに塞翁が馬をまったく考へない記事をみつけた。これが今回の特集のきっかけだ。世の中を見渡すと、今は一つの種類だけの結果、短期だけの結果で判断する。経済関係は特にさうだ。経済だけに気を取られてゐると、人口問題で、今後大変な塞翁が馬となる。(終)

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