千百九十五 1.石飛道子さん「『スッタニパータ』と大乗への道」を読んで、2.上座部と大乗
平成三十戊戌
九月十五日(土)
石飛道子さんの「『スッタニパータ』と大乗への道」を読み、幾つか気付いたことを述べたい。この書籍は、スマナサーラ長老に近い出版社から出されたものなので、上座部仏教に悪意のある本ではない。
また『スッタニパータ』に大乗への道が含まれているとすれば、上座部と大乗の連帯、更には全ての宗教の連帯を願ふ当ホームページとしては、大歓迎だ。
しかし『スッタニパータ』に大乗の道が含まれてゐるか。そもそも上座部と大乗の違ひは何なのか。その議論を始める前に、スッタニパータの書籍を執筆された石飛さんには敬意を表する。
スッタニパータの第四章八偈経は、漢訳「義足経」が相当する。義足経の原本について、石飛さんは水野弘元さんの主張する
パーリ語がそれに近い俗語で書かれたもので、二世紀当時インドやスリランカで勢力のあった無畏山寺の所属ではなかったかとしています。
そして
無畏山寺の特徴としては、上座部の系統ではありますが、大乗的な思想を受容したことが知られています。
それならスッタニパータを大乗への道とするのもあり得る。石飛さんは
わたしは、この「八偈経」と『義足経』の偈の部分は、ブッダの直説であると考えています。
これは同感だ。ここで注意すべきは、偈の部分が直説なら、それ以外は直説ではない。そんなことは誰もが知ってゐる。そして、直説ではないがブッダの弟子や孫弟子などがブッダの考へを自分たちの言葉で追加した。それなのに一部の悪質な連中が、上座部の経典も後世の偽作だと騒ぎ立てる。
九月十五日(土)その二
石飛さんは
ある人々は、四つの「八偈経」のうち、特に第三経「悪しきことの八(偈)経」を重要視して、「自ら寂滅している」(783偈)ことを自らの到達目標にしたのではないかと思われます。
もう少し詳しく説明すると
別の言い方をしますと、かれらは、「マーガンディヤ経」(第九経)の中でブッダがマーガンディヤに語った境地「諸法の中で決定を下して執着したものを、諸々の見解の中で見ながらも執ることなく、内面の寂静を見極めている者であれば、かれには、『わたしは、これこれを説きます』ということは、ない」(837偈)ということを自らの理想として、そこを目指した人々ということになります。
ここまでは特に反対ではないが、石飛さんはこのあと、
これらの人々は、サンガ(僧団)を形成して(中略)部派仏教の系統へと発展していくと考えられます。
ここは違ふと思ふ。原始仏教に対する部派仏教の特徴は理論を説くことだ。それはこのあとの大乗への道を読むと余計にさう思ふ。
もう一方は、四つの「八偈経」のうち「最高のことの八(偈)経(Paramat,t,hakasutta)」を特に重要視した人々です。
ここで「t,」はtの下に点が付く文字を表す。書籍ではこの文字が印刷されてゐるがパソコンでは「t,」と表現した。
at,t,haをattha(義)の意味にとりますと(中略)これは、「最高義」という意味です。龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』24.8に出て来る「最高義としての真理(括弧内のサンスクリット語は略)」とは(中略)「最高のことの八(偈)経」の内容を指すことは明らかだと思います。
「最高のことの八(偈)経」で重要なことは
このような人は、彼岸に達して戻って来ることはありません。
の部分だ。しかしこの本では
『マーガンディヤ経』にある「聖者は、寂静を説いて貪らず、欲にも、世間にもけがされないのです」(845偈)をあげることができます。
と、部派は説かない/大乗は説くことを重視したとする。先ほど述べたやうに、原始仏法と部派仏法の違ひを、説かない/説くとしたのなら判る。しかしこの本では部派を説かない/大乗を説くにした。
大乗が説くのは当然だが、部派だって説くし、そもそもブッダの時代や原始仏法の時代も、説くから信者が集まるし出家者も続出した。
九月十五日(土)その三
ここで上座部と大乗の違ひは、何なのかを考へよう。一般には、ブッダだけを拝むのが上座部/いろいろな仏像を拝むのが大乗とする。パーリ語経典を使ふのが上座部/その後に作られた経典を使ふのが大乗とする分け方もある。
ところがここ五十年ほど、自力の修行が上座部/仏にすがるのが大乗とする分け方が有力になった。石飛さんの、説かないのが上座部/説くのが大乗はこれと同じ思想だ。
今は科学万能の世の中だから、原始仏法は自力の瞑想だけで阿羅漢に達することだと短絡しがちだ。しかし信者が僧侶を支へることが功徳になることは、科学では証明されない。
次に、ブッダが説いたことは、戒と瞑想の前提があってのことだ。戒と瞑想を抜きにブッダの直説を解釈すると科学になる。その一方で、戒と瞑想は大乗でも必須だ。天台宗と真言宗には戒と瞑想がある。日本の天台宗が新しい戒律を設けたのは、形式を廃しただけで戒そのものは重視した。
以上を踏まへて、上座部と大乗には本質の違ひはないと私は思ふ。しかし伝統保持に異常な努力をしてきたのが上座部だし、上座部はブッダの教へを今に伝へる。だから上座部を本家として尊重するとともに、各宗派は長く続いた伝統を守ることで各宗派の教義も尊重される。これが一番よい。
九月十七日(月)
インド哲学の研究者に要望がある。八偈経に説かれたことは、当時のバラモン教を批判したのか、或いは仏法の修行者のうち不十分だった人に注意を与へたものなのかを、研究してほしい。あと、当時の優婆塞、優婆夷も瞑想をしたのかどうかと、その瞑想内容は、比丘、比丘尼のものどこが違ってゐたのか。無畏山寺派の大乗受容はどんな内容だったのか。
私は最近、解脱を目指すことが瞑想の一つの方法ではないかと主張することがある。これは大乗の仏法や、XX教、イスラム教、ヒンドゥー教、儒教道教神道などは、実は瞑想の方法であったと主張する以上、上座部の仏法もここまで譲歩する必要があるためだ。
人生が楽しいときに、或いは老病死の苦しみがひと時は現れても人生全体では楽しい時に、まづ人生は苦だと告げる。次に解脱を目指して修行をする。さうすれば多くの人が解脱することは間違ひない。解脱後がどうなるかは無記だが。
その一方で、上座部の国々は仏法が衰へる気配を感じさせない。だからタイ、ミャンマー、スリランカ、ラオス、カンボジアは従来の仏法をこれからも続けてほしい。
大乗の国々では仏法の衰へが著しい。XX教国でもXX教の衰へが著しく、それは唯物論として地球を滅亡寸前にまで追ひやった。これらの国々では、すべての宗教は瞑想法だと気付き、宗教を復活させる必要がある。(終)
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