千二百一(その二) 中村元選集第13、14巻「原始仏教の思想 上下」を読む
平成三十戊戌
九月二十九日(土)論争すべからず
第13巻では
仏教が他の思想とは次元を異にした高い立場に立つ思想であり、すべての思想を包容するものであるとすると、まさにその故に他の人と争うということがなくなる。『論争すべからず』というのが、ゴータマ・ブッダの根本信条であった。(35頁)
この原理が成り立つのも、ブッダの教へは戒律と瞑想から智慧を生じるものだからだ。戒律と瞑想を無視してブッダの教へを理解しやうとすると、何もない、或いは道徳論になってしまふ。
九月二十九日(土)その二空観
空は大乗の仏法が説くと一般には考へられてゐる。
しかし原始仏教聖典のうちの、しかもかなり古い詩句には、空の思想がいろいろなかたちで解かれている。
最初期の仏教における空観は、無常説から導き出されたようである。
無常からは空が導き出される。後世に、大乗に於いて空とは無と有を超越したものだ、などと説明されるとそれは無常からは導き出せない。尤も無常とは有でも無でもない、と云へば導き出せる。
『つねによく気をつけ、自我に執する見解をうち破って、世界を空(sun-n-a、-は文字の上に-)なりと観ぜよ。しからば死をのり越えることができるであろう。(以下略)』
九月三十日(日)無我説
経典の中の最古層に表明されている無我説によると、何ものかを「わがもの」(mama)「われの所有である」と考えることを排斥している。
これなら納得できる。そして出家の意義もある。
『子女ある者は子女について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の執着するよりどころは憂いである。(以下略)』
ここに出家修行の倫理が成立するのである。
中村さんは自己の身体もアートマンではないとする。しかも
ここで「身体」という場合には(中略)精神作用をも含めたものであり、むしろ個体・個人存在・人格的存在といったほうがよいかも知れない。
つまりアートマンの本質は良心である。これならブッダが入滅の時に、自己を島(よりどころ)として歩め、と遺言されたことも理解できる。ブッダが万人に理解できないことを遺言する筈がない。中村さんは、島を漢訳仏典では灯明としてゐるが趣旨に相違はないとするが、これも同じである。
原始仏教では、われわれの行為の看視者として、神々と人格完成者(仏など)とわれわれの自己とを挙げているが、そのうちどれかを究極的なものと考えて、他を派生的なものと考えることをしなかった。
これもその説を更に強く補足してゐる。
十月八日(月)滅は制止が正しい
便宜上「消滅」と訳したnirhodaという語は、漢訳仏典ではたいてい「滅」と訳されるが、実は「制止」という意味である。(中略)漢訳者は、仏教の理想の境地(nirhoda)を「滅」という字で表現したために、仏教は虚無論を説くものだというような印象を一般に与えてしまった。
ここは貴重な情報だ。結論として
ほしいままの欲望を制御し、苦しみをとじこめてしまうのがもとの意味であって、その結果としてしずまったやわらぎの状態をもたらすことを、合わせてめざしていたのであった。
これなら、日本でもよくわかる。上座部が優勢の国は今のやり方をいつまでも続けてほしい。一方で、大乗が優勢だった国は、どこも下火になってしまった。「滅」とは「制止」だ、仏法とは「苦しみ」を閉じ込めて「やすらぎ」をもたらすことだと判れば、日本でも仏法が復活しさうだ。
十月八日(月)その二現状と、現状の原因と、解決と、解決法
苦集滅道を「四つの真理」とすることには、抵抗があった。そしてその原因がわかった。ヨーガ派では
『医学書には四種の部門がある。すなわち(1)病気と(2)病気の原因と(3)無病と(4)薬とである。それと同様に、このヨーガの学問もまた四種の部門がある。すなわち、(1)輪廻と(2)輪廻の原因と(3)解脱と(4)解脱の方法である』
つまり4つに分けることは、当時の思考方法だった。苦集滅道も4つに分けることが大切ではなく、苦と制止とそれらの方法をブッダが示したことが要点だ。
十月八日(月)その三まとめ
中村さんは、根底に仏法への篤い信仰がある。だから当時の習慣で小乗仏教の語を用ゐてもそれほど嫌な感じはしない。大乗、上座部を区別することなく、根本のブッダの教へが何だったかと、滅後の人たちが仏法を後世まで伝へやうとした努力に敬意を持ってゐる。
それに比べて最近の仏教学者と云はれる人たちは、中村さんを表面だけ猿真似して小乗の語を乱発したり、既に中村さんが書いた学説を繰り返す低級なものが多い。(終)
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