千百七十 伊那の信盛寺
平成三十戊戌
七月二十四日(火)信盛寺訪問前の揺れる心
この日はもう一箇所に寄った。それは伊那の信盛寺と云ふ大石寺末だ。その前に私の宗教観を述べると、日蓮は非常時の仏教だ。鎌倉時代の元寇や、近代のアジアアフリカのほとんどが西洋列強の植民地になった時代には有効だ。だから明治時代には田中智学の国柱会が現れたし、戦後は創価学会が現れた。
私の今の心境は、全ての宗教の連合と、それと共産主義、伝統主義の共同による唯物論への反撃、即ち地球破壊の停止だ。日蓮関係者も地球温暖化の阻止に協力してほしいが、私自身は日蓮に関はる時間がない。
しかし古刹を訪問すると、何か得るものがある。東北地方の大石寺末では、御影(日蓮の像)が前面金網の箱に安置されてゐた。これを見て、大石寺の戒壇本尊絶対説は後世の作だと確信した。ネズミにかじられる恐れがあるし、シロアリや火災の心配もあるからだ。
一方で信盛寺は明治時代に建立されたから、或いは見るものがないかも知れない。しかし創価学会の出現前に熱心な布教活動を行ったから、得るものがあるかも知れない。そんな気持ちで小野宿から信盛寺に向かはふとした。
小野駅に着くと、倒木で中央線が止まったと云ふ。タクシーで代行するが遅れてゐる。塩尻から乗車した三人に手間取ったのかも知れない。小野で三人が降りて、私が乗車した。辰野では乗り継ぐはずの電車に間に合はなかった。53分の待ち合わせで次の電車がある。この時点で信盛寺訪問は中止した。
しかし伊那市駅に着くとまだ時間がある。降りずにそのまま隣の下島駅まで乗った。

七月二十五日(水)信盛寺訪問
駅を降りると、そこには信盛寺と書かれた石塔が建つ。途中で道は二つに分かれ、右にはまた石塔が建つ。道端に七文字の題目が書かれた30cmほどの石がある。これと同じものは沼津の本廣寺への路傍でも見た。かつて七文字の題目は誰にでも書けた。ところが日達が大石寺貫主となってから、総本山の貫主以外は、「南無」を除いた五文字しか書けなくなった。これは教義の改変であり貫主の教祖化だ。
信盛寺の本堂は板曼荼羅の両脇に日蓮と日興の御影を安置する。さすが創価学会の出現前に建立されたお寺だ。あと宝蔵と思はれる建物が二つ(今思へば一つは納骨堂か)ある。境内に墓地はない。これは明治の建立だから仕方がない。
住職は不在だったので奥さんにお話を伺った。堀米家は今でも信盛寺の信徒ださうだ。堀米日淳さんは東京鍋屋横丁の先の中野教会、その他を経て大石寺貫主となった。堀米さんの後に主管(院と教会の住職を主管と呼ぶ)となった手塚貫道さんも信州の出身だ。信盛寺と関係があるのかお伺ひしたが、判らないさうだ。安曇阿闍梨なので松本より北の出身かも知れないですね、と話してお寺を後にした。
帰路、650遠忌の石塔があり「精道代」と書かれてゐた。精道とは堀米日淳さんの急死を受けて大石寺の貫主となった細井日達さんのことで、細井さんが伝統を破壊したから創価学会が離反した。創価学会はさうは思はず、日達さんがいつまでも上野村(今は富士宮市に合併)の住職に留まり、世界展開しないから第一次宗創戦争が起きた、と思ってゐるだらう。
しかし実は日達さんが、創価学会にさう思はせてしまった。堀米日淳さんのやり方をそのまま続ければ創価学会も戸田城聖さんの時代のままで進んだのに残念なことだ。私は国立戒壇のことを言ってゐるのではない。国立戒壇は明治になって田中智学が言ひ始めて大石寺も対抗して言ひ出したことだから、別に破棄しても問題ない。

七月二十六日(木)矢島秀覚さん
信州出身でもう一人忘れてはいけない僧侶がゐる。矢島秀覚さんだ。戦時中に創価教育学会は治安維持法違反、不敬罪で幹部23名が逮捕された。ほとんどは転向し釈放されたが、牧口、戸田、矢島の三名は転向しなかった。牧口は獄死、戸田は戦後、創価学会と改称し折伏大行進を始めた。
戸田の経営する金融機関が監督官庁から営業停止になり、戸田は創価学会の理事長を辞任し、矢島周平が後任になった。後に戸田は会長になり、矢島は出家して矢島秀覚と名乗り埼玉県大宮の正因寺住職になった。ご子息も僧侶になり矢島覚道と名乗り正因寺の住職を継いだ。大石寺末に世襲はないから異例のことだった。秀覚さんが亡くなったあとの話だが、私が覚道さんに「伊那法難がありましたよね」と話すと「え、あったっけ?」と答へられ、暫くしてから「さう云へばあったね」と修正された。秀覚さんが信州の出身なのに、伊那法難がすぐに出て来ないことがおもしろかった。

七月二十七日(金)大石寺が世に出た理由
法華宗、日蓮宗など日蓮系寺院六千ヶ寺のうち、日興の門流は二百ヶ寺。これだけでも無視される存在なのに日興門流の中で、創価学会出現前の大石寺は末寺数が六十一だったから、世にまったく知られない存在だった。
国柱会の田中智学が、日興門流の北山本門寺(当時は本門宗)に注目した。牧口常三郎は大石寺末の信徒に勧誘されて入信したが、これは田中智学と北山本門寺の件が理由だと推定できる。末寺が六十一の宗派に入れと云はれても、普通は入らない。しかし今をときめく国柱会と関係が深い北山本門寺の本家筋に当たるのが大石寺だと云はれれば、誰でも耳をピクリと動かす。
牧口常三郎は、自身の教育方法を広めるため創価教育学会を設立したが、後には大石寺末の信徒になることを入会条件にした。牧口が獄死したあと、戸田城聖の心中は吉田松陰を刑死させた高杉晋作のやうな気持ちだったのだらう。そして大布教活動を開始した。
だから大石寺が世に広まる機会は、(1)田中智学と北山本門寺、(2)牧口常三郎の獄死、(3)戸田城聖の決意の三つがたまたま揃ったため起きた。それは七百年に一回くらいのことだ。

七月二十八日(土)大石寺と創価学会が今後してほしいこと
大石寺が創価学会を破門して判ったことは、大石寺は小さな宗派が似合ふ。大石寺の伝統を守るとは、小さな宗派を続けることだった。大石寺の教学には、学術的に変なところがある。まづ大石寺貫主絶対論だが日興、日目滅後に分裂が起きたから、これは誤りだ。二番目に戒壇板本尊絶対論だ。これも日禅授与の本尊を組み合はせて作ったことが明らかになった。
明治時代に北山本門寺で火事があったとき、大石寺はお見舞ひに米を贈った。だから大石寺を信じれば功徳があり、北山本門寺を信じれは駄地獄だと云ふことは無い。大石寺が本門宗を離脱したのは、大石寺、北山本門寺、京都要法寺など八本山の貫主が輪番で管長を務めたが、文部省の命令で管長は各本山で導師を務めることになった。本家意識の強い大石寺は他の本山の貫主受け入れを拒否し、本門宗を離脱した。
学術的に大石寺教学でも調べる価値のあるものがある。例へば二十六世日寛の著作は、創価学会出現後は身延などから悪書として嫌はれるが、日寛が著した当時は京都要法寺に受け入れられた。要法寺内の反応は各地域、時系列でどうだったのか。
二つ目に、戒壇本尊は九世日有のころに作られたが、日有の化儀抄は理想主義の香りがする。日有が偽作をするとは考へられない。或いは紫宸殿本尊の模刻と同じで、日蓮直筆の文字を組み合はせることは、篤信な行為と当時は考へたのかも知れない。これも学術的に調べる価値がある。
創価学会に一つ云へることは、牧口らの投獄は伊勢神宮大麻の受け取りを拒否し、あまつさへ神道では国が亡びるから大石寺を信仰しろと国家諌暁を主張したことが原因だ。
堀米戸田時代はきちんとそのことが伝へられたが、細井池田時代の言論出版妨害事件以後、戦争に反対したから投獄されたと主張するやうになった。これは歴史の変更であり、やはり正しく伝へたほうがよい。この当時、創価学会は国立戒壇を連想させることには敏感になったが、既に嵐は過ぎた。正しく伝へることが、牧口、戸田両会長への供養となる。(終)

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