千百七十 伊那谷訪問記(伊那市に宿泊、飯田市内、天竜峡、豊川、豊橋に宿泊)
平成三十戊戌
七月二十八日(土)コンビニのない街
下島から一つ戻り、伊那市駅で下車し市内の旅館に一泊した。素泊まりで四千二百円。近くにコンビニがないので、スーパーで夕食と翌朝の朝食を購入した。コンビニが無く不便な点は、翌朝の朝食も買はなくてはいけないことくらいだ。コンビニのない街もよいものだ。きゅうり四本で120円。これは安い。地元農家の直産だ。毎食に一本づつ食べた。
旅館に帰り、タンパク質を買はなかったことに気付いた。自分で食事を用意するときは、でんぷん、タンパク質、繊維素の三つに注意する。そこで再度スーパーに行き大きなさつま揚げを買った。夜は特売のマーガリン入り小型パン5つで20円引きと、さつま揚げ半分ときゅうりを食べた。ここでさつま揚げ半分は、量的には十分だがたんぱく質が5g弱なことが判った。このことが翌日の昼食に影響する。あと1.5合の紙パック日本酒(小山本家酒造)を飲んだ。小山本家酒造は埼玉の酒造所だが、昼に1.5合地酒を飲んだので、予算の関係で安いものにした。
朝食は角型焼きそば、さつま揚げ半分、きゅうり一本を食べた。本当はヨーグルトとかも用意するとよかった。それより失敗があった。ポットが電気式ではなく貯湯式だ。昨日午後からぬるくなったかも知れない。昨夜のマーガリンパン5つと今朝の角型焼きそばの順番を逆にすればよかった。しかしその心配はなかった。お湯はまだ高温で、焼きそばは十分に美味しくなった。

私は個人経営の店は応援しようと云ふ気になる。だから旅館の経営者(堺正章みたいなタイプだった)とは、「昔のテレビは松本だと1、3、5チャンネルしかなかったが、今はずいぶん増えましたね(7チャンネルくらいあって東京の地デジと同じ)」と話したり、スーパーに行った帰りに空き地で上を見てゐる(雨乞ひ?)ので声を掛けると「松本辺りで夕立ちなのでこっちに来ますかね」と云ふので「松本の夕立は光ると同時にバリバリなってすごいけど、伊那は山が遠いのでそれほどではないでしょうね」と友好的だった。
チェックアウトを済ませたあとで、旅館の周りを見渡すと、裏の一階に駐車場があり、二階以上は増築を重ねた感じだ。典型的な昭和四十年代の旅館だった。しかし二泊目に豊橋のホテルでこちらは三千九百円。伊那は三百円高いからやや不満が出て来る。まづ浴衣は着てゐると変な臭ひがした。着る前はしないから洗濯が不十分な訳ではない。西日本に被害をもたらした大雨の影響で、なかなか乾かなかったのであらう。洗濯物が乾かないと、着たあと臭ってくる。
あと浴室は四階と云はれたが、超高温のなかをたくさん歩いたので疲れた。シャワーで済ませたがお湯がでない。たくさん出せば出るのかも知れないが、暑いので水で(生ぬるかったので)洗って終りにした。一言追加すると、豊橋のホテルは部屋が狭く冷蔵庫がない。決して伊那の旅館が高い訳ではない。

七月二十八日(土)その二元善光寺の代はりに飯田市内見物
翌朝は6時18分発の電車で元善光寺で降りる予定だった。ところが飯田に近づくと中高生で混雑した。車内放送で「xx高校(学校名は聴こへなかった)の一日体験入学はxxxx(覚へてゐないが、混むので前もって切符を購入してください、だと思ふ)」と云ふので、どこの駅でどのくらいの生徒が降りるのか興味を持った。そのため元善光寺で降りずに、飯田まで乗った。ちなみに生徒は中学生、高校生とも全員が伊那上郷で下車した。
飯田では、まづ菱田春草の生誕地に行かうとして道を一本間違へた。そのため生誕地は寄らずに高台を降りて反対側を上って飯田城跡に行った。帰りに高台伝ひに再度反対側へ行き、無事菱田春草の生誕地を観ることができた。単なる公園だが一応寄る価値はある。
すごい暑さなのに、観光案内所のある冷房の効いた部屋に、観光客が入ってこない。理由は地元の老人2人が大声で市内案内のビデオにいろいろ感想を述べる。あの大声は不愉快なので観光客は冷房のない場所にゐる。老人は耳が遠いのか、或いはおそらく大声を出すと誰も近くに来ないから快適だと前から気付いたのだらう。私は観光案内所の職員に云って注意してもらった。老人たちは一人、また一人と帰って行った。老人は地元の人間だから観光案内所に居座っても何の役にも立たない。それより観光客に不愉快な思ひをさせるのではなく、快適に過ごして頂いたほうがよい。

七月二十八日(土)その三天竜峡
天竜峡は10時6分に到着した。無料で電動レンタサイクルに乗った。天竜峡で観光振興のため努力される皆さんに心から敬意を表する次第である。岸壁を自転車で観るのはほとんど不可能だ。だから天竜峡温泉交流館へ寄ったあと、天竜峡インターの先に川治温泉と云ふ標識があったので行ったところ、旅館が一軒あるだけだったので天竜峡駅に戻り、橋の対岸の活性化センターで水なす(税込み百二十九円)を買って、自転車は返却した。
食堂に入らうとするのだが、対岸はどこも準備中だ。その先にスーパーを見つけ、調理済みの魚二尾と、野菜の付いた弁当を買った。戻る途中、どこの食堂も「営業中」の札を掲げるが、手遅れだった。橋の傍のベンチで食べた。魚二尾は昨夜と今朝の食事でたんぱく質が不足したのでその穴埋めだった。
暑いので550mlのペットボトルは二本飲んだ。12時50分の電車で豊川に向かった。

七月二十八日(土)その四豊川稲荷
豊川着16時3分。豊川稲荷に参拝した。印象に残ったのは千本幟、霊狐塚、豊川海軍工廠戦没者慰霊塔。工廠は海軍だけではなく地元の傭員、学徒勤労動員が多数含まれる。たくさんのお堂にも感銘した。
豊川発は17時31分だと思ふ。混んでゐた。豊橋で花火大会があるから、それが原因だらう。豊橋は地図に乗る二車線の道路が駅前大通りなのかどうか判らず迷ひはしたが、無事ビジネスホテルに到着した。花火大会の場所を教へてもらったが、日中の暑さで疲れたので行かなかった。とは云へコンビニその他スーパーを探しに国道まで往復したから、余力が無い訳ではなかった。
ファミリーマートを見つけて、夕食用に大きなウィンナパン(125円税込み)ベーコン&エッグパン(128)、酒パック180ml(103)を2つ、トマトジュース(110)を購入した。昼はキュウリを食べなかったので、今夜と明朝の分がある。それにも関はらずトマトジュースを購入したのはビタミンA不足に備へてのことだった。

七月二十八日(土)その五豊橋市内見物
翌朝はローソンに行かうと思ったが、場所が判らず再び昨夜のファミマに行ってしまった。そして何と酒とトマトジュースを除く昨夜と同じ(大きなウィンナパン、ベーコン&エッグパン)になってしまった。キュウリが今朝の分まであるためだ。
栄養に詳しい人は、三日間でビタミンCが足りないと思ふことだらう。そのためキュウリをほとんど毎食食べた。キュウリはビタミンCを破壊する酵素が入ってゐると云はれるがそれは昔の栄養学で、ビタミンCは酸化形になっても体内で有効に働くと云はれてゐる。とはいへどのくらい有効なのか判らないし、酸化形は更に変化しこれは元には戻らないらしい。だからキュウリは四本に留めた。
チェックアウトののち、路面電車一日乗車券を購入し、終点の運動公園まで乗った。この車両は昭和30年代前半の製造だらうと思ったら、昭和30年製造だった。年では私より一つ上、学年では同じだ。なぜ判ったかと云ふと、都電の6000型と同じ発想で作られてゐる。直接制御、板バネである。このころ間接非自動、コイルバネの車両が出て来て、それが全国に普及するのが昭和30年後半と見た。
運動公園は、変な音がする。中に入ると、何と大量のセミの鳴き声がコンクリートの競技場に反響して変な音になるのだった。最初は変な種類のセミが棲息するのかと思った。
運動公園から競馬場まで戻る形で乗車した。ここには留置線が二本あり営業所もある。外から覗くと、ここから一停留所が単線で、そこから赤岩と運動公園に分岐する。その区間全てのCTC装置だった。とは云へ、単線区間はトロリーコンタクターで自動制御される。かつて東京の路面電車はトロリーコンタクターが道路信号と連動してゐた。豊橋市内線にそのやうな施設は無かった。連動させれば路面電車の待ち時間低減となり、乗客が増へて、車の交通量は減る。都道府県の公安委員会はそこまで考へなくてはいけない。
競馬場から赤岩口まで乗った。市内線のインターネットには、赤岩口に車庫があり外からよく見えるとある。なるほどこれはよく見えて楽しい。他の鉄道会社も隠す必要はないのだから、豊橋市内線を見倣って金網にするほうがよい。
赤岩口から豊橋公園まで戻る形で乗車した。電車が動くと線路のゆがみを感じる。なぜ今まで感じなかったのか不思議だったが、それは三両編成のT1000型のためだった。一両目と三両目の中央に台車があり、二両目は浮いてゐる。一両目や三両目の端に座ると、揺れが増大する。とは云へ乗り心地が悪い訳ではない。豊橋鉄道の経営努力に敬意を表する。
豊橋公園で吉田城跡と歩兵第18連隊跡を見たあと、市内線で豊橋駅に戻り神奈川に戻った。(終)

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