千百四十七(その四) ケネス田中さんの著書を読む(アメリカ仏教)
平成三十戊戌
六月七日(木)
最後は「アメリカ仏教」で八年前に出版された。日本語で書かれ、ケネスさんの研究の集大成とも云ふべき書籍だ。序章の「ローマ法皇の警戒心」の節で、ヨハネ・パウロ二世が
「(仏教の)涅槃とは社会に対する完全な無関心に他ならない」、「釈尊の体験した悟りとは、この世は悪であり、それ(この世)が人間の悪や苦しみの源であると考えることである」などと、従来の西洋の偏見に基く誤った仏教理解を披瀝している。

ケネスさんに100%賛成だ。今のやうに地球滅亡寸前の世の中にあっては、人類はどんどん涅槃したほうがよい。とはいへ、これは極論で私もこのやうな主張は五年に一回くらいしかしない。上座部仏教の僧侶も涅槃だけを目指す訳ではない。きちんと信徒への指導を行なふ。祈祷なども信徒への救ひと見るべきだ。
生命は縁起で生じ、涅槃を目指す。これ自体が瞑想の一つの方法だ。このやうに瞑想することが、当時のインドでは解脱の近道だった。その後、神に祈る瞑想(XX教、イスラム教)、諸神に祈る瞑想(ヒンドゥー教、道教、神道)、釈尊を含む諸仏に祈る瞑想(大乗仏教)が現れた。仏教とXX教は何ら矛盾しない。

六月八日(金)
第一章では、アメリカの仏教徒の人数と分類が行なはれる。分類についてプレビシュ説、ナティア説に対して、ケネスさんは田中説を提唱する。田中説は
一、「旧アジア系仏教徒」、二、「新アジア系仏教徒」、三、「瞑想中心の改宗者」、四、「題目中心の改宗者」である。

私は田中説に賛成だが、この説を永続させるには少し改良するとよい。四の「題目中心の改宗者」はSGI―USA(XX会インターナショナル)だけで、他が25万人から135万人に対して10万人と少ない。四は「現世利益仏教の改宗者」とするほうがよいと思ふ。或いは「唱和(Chanting)仏教の改宗者」でもよい。現在はXX会だけでも、将来別の現世利益型団体が現れないとも限らない。本質を考へて「組織仏教の改宗者」とする方法もある。
日本とアメリカで活躍されたケネスさんの田中説が永続することを真に願ふ。永続と云へば、いつかは「新アジア系仏教徒」もアメリカに同化する。それを考へれば一と二を「アメリカに同化したアジア系仏教徒」「アメリカに未同化のアジア系仏教徒」と改称する方法もある。将来、新アジア系がアメリカに同化したときに、後世の人たちが二の同化した宗派を一に移動させて田中説はそのまま生きる。

六月九日(土)
第三章はアメリカ仏教界に起きた十大出来事を解説されてゐる。その八番目の「一九七四年 インサイト・メディテーション・ソサイアティ--新しい形の仏教」で
インサイト・メディテーション・ソサイアティ(Insight Meditation Society 通称IMS)の起源は、一九七四年にジャック・コーンフィールドとジョーセフ・ゴールドスタインが(中略)ヴィパッサナー・メディテーション(括弧内略)方式を教えたときに遡る。(中略)二年後に、二人は、シャーロン・サルスバーグおよびジャクリン・シュワーズという女性教師と一緒にマサチューセッツ州バリー市にセンターを設立した。センターは、パーリ語の「ヴィパッサナー」の英訳である「インサイト」(Insight 洞察)を持って、インサイト・メディテーション・ソサイアティ(洞察瞑想会、IMS)という名称をつけた。(中略)その勢いは徐々に増し、コーンフィールド氏は西海岸のカリフォルニアに移り、一九八四年にサンフランシスコより約二十キロ北にスピリットロック(Spirit Rock)というセンターを設立した。

四人は一九七〇年頃ビルマとタイなどで
マハーシ・サヤドウ(括弧内英字略、以下同じ)、ウ・バキン、ゴエンカ、ブッダダーサ、アーチャン・チャーに師事した。

四人が師事した五人は
「正しい教」(orthodoxy)より、「正しい行」(orthopraxy)に自分たちの僧侶としてのアイデンティティーを見出した。

アメリカ国内に三百の独立したセンターがあり、七十人の教師がゐて全員在家、四十八人がリトリート(参禅会)を指導する資格を持ち、数名を除いて白人、女性が半数。リトリート費はセンターの運営費に当てられ、講師への謝礼は参加者がお布施として直接渡す。しかし教師はそれのみでは生活できず、セラピストなど本職を持つ。

六月九日(土)その二
インサイト・メディテーションに属する団体の名称は、(中略)「仏教」(Buddhism)の言葉すら含まれていない。(中略)彼らにとっては、人生否定(life-negating)、来世志向(other-worldly)および二元論的(dualistic)な要素を持つ東南アジアのテーラヴァーダと関係を持つことが大変難しいと見たようである。(中略)この伝統軽視の傾向は、他の宗派にも見られる。
ここで云ふ他の宗派とは、アメリカ人の作ったメディテーションセンターなどのことで、アジアの既成宗派のアメリカ布教所のことではない。伝統軽視の問題は、明日の第四章で詳しく触れたい。
ケネスさんは八番目「一九七四年 インサイト・メディテーション・ソサイアティ--新しい形の仏教」の次に、九番目「一九七六年七月四日 XX会の建国二百年祝典--アジア宗教のアメリカ化」を挙げる。
仏教をアメリカの基本的価値観と同一視することを進める「文化のお祭り」(culture festival)であった。特に若者を対象に創立の年から十五年間も続けられ、それがこの一九七六年の大規模な建国二百年祝典として実ったのである。

アメリカに合ふ方法で活動することに賛成だ。しかし同じ方法を日本に持ち込んではいけない。XX会の布教が頭打ちになったのは昭和四十五(1970)年あたりで、その原因は三つあると私は分析する。その一つが日本にアメリカ方式を逆輸入したことだ。それは昭和三十九(1964)年に始まると私は見る。XX会だけではなく、当時所属してゐたX寺にまで逆輸入の影響は及んだ。
アメリカで「文化のお祭り」を始めたのが1976-15=1961(昭和三十六)年とするケネスさんの書籍は、貴重な資料だ。

六月十日(日)
第四章「特徴--アジアの仏教と比較して」でケネスさんは、「瞑想中心の改宗者」について特徴を挙げる。それは在家者中心、女性指導者が半数、瞑想中心でそれは呼吸に集中、「教義」や「儀式」より「行」、教師は複数の宗派に所属、などだ。
このうちの「教義」や「儀式」について、私はこれらが「行」を促進するとの立場だ。「行」だけを持続させることは難しい。しかし「教義」や「儀式」なら持続できる。「教義」や「儀式」が「行」なのだとすれば、全員が救はれる。「行」を単独だとほとんどの人は救はれない。
一方で「教義」や「儀式」だけだと堕落しやすい。奈良仏教、比叡山、鎌倉仏教。堕落を嫌って新しいものが出現するものの、最新の鎌倉仏教でさへ、後継争ひ、他派との武力衝突など堕落の現象は多数ある。また組織内にゐると「教義」や「儀式」に幻滅することもあらう。私が「伝統」を強調するのはそれが理由だ。「教義」「儀式」「行」を平衡させたものが永続し、それを「伝統」と呼ぶ。だから外圧で永続するものは伝統ではない。
アメリカには伝統がないから、次々にグループや解釈が誕生するのはやむを得ない。伝統が無いことの影響を第五章以降に求めたい。

六月十二日(火)
スリランカのダルマパーラは 釈尊は、最上の創造主(括弧内英語略、以下同じ)というような者は存在しないと言い、進化論とそれと同類する因果の法則を唯一の真実であると受け入れていた。
後半の進化論は、何千年、何万年で考へれば正しい。しかし人間の一世代、二世代、三世代で見ると生物は固定だ。ダルマパーラは創造主がゐないことを強調するために後半を述べたのだらう。前半についても、創造主が因果の法則を創ったかも知れないが判らないから無記、とするのがよいだらう。これなら一神教にも受け入れられる。
第五章で注目すべきは第三節「環境」だ。人間は自然界の一部、一切衆生の一部。この思想が西洋人には欠けてゐる。ここから先は私の意見だが、人間界のなかでも地球の各地域に於ける人種、文化の違ひは、自然に発生したものだから人為的に変更すべきではない。西洋が自分たちのやり方を他の地域に押し付けることは止めるべきだし、移民国は移民の受け入れを停止すべきだ。化石燃料の使用は停止すべきだ。

六月十五日(金)
第六章でまづ注目すべきは、「宗教は子供のためになる」と考へるアメリカ人が多いことだ。日本では社会規範が人を制御するが、伝統のないアメリカでは宗教、コミュニティなど別のものが必要だ。しかし伝統国の社会規範は長年に亘り宗教の存在下で構築されてきた。そして最近はグローバルなどと称して社会規範がかなり破壊された。
次に注目すべきは「東洋宗教の魅力」の節で六つの魅力を挙げ、そのうちの「友情」「西洋の腐敗」「健康と環境への関心」に同感だった。(完)

追記六月十七日(日)
昨日インターネットで、1956年に制作された映画「ビルマの竪琴」を観た。隊長が音楽学校出なので、小隊に合唱を教へた。やがて終戦になり捕虜終了所に移送された。隊で合唱をするとミャンマー人が鉄条網の向かうからお金や食べ物を投げ込む。芸人と勘違ひしたのだらう。日本兵がそれを僧侶のほうに投げ返し、近くの人が托鉢盆に入れた。しかし僧侶は礼をしないので日本兵が「偉さうだな」と皮肉を云ふ。
同じ話がケネスさんの書籍にもある。第四章に
ディスカッションが一番活発になったのは、三十代の女性が東南アジア出身の出家者たちの態度を批判し始めた時であった。彼女は訴えた。

私たちがあなたたちに合掌して挨拶しても、皆さん出家者は、私たち在家者に挨拶を返さない。(以下略)
出家者は社会的に偉いのではない。その逆で質素な衣、質素な食事、質素なベッドで睡眠をとる。だから信者は僧侶を大切にするのだ。そして徳を積むため僧侶に食べ物や衣などを寄進する。信徒は自分たちの徳を積むために寄進するのだから、僧侶にお礼を云はれたら、徳が積めたのか心配になってしまふ。
同じ内容の例をもう一つ挙げると、お寺の仏壇に光検知器を設置し、仏飯やお水を備へる度に録音で「ありがとうございました。阿弥陀仏もお喜びです。次回もよろしくお願いします。」とスピーカーから流れたら、厳粛な雰囲気が壊れてしまふ。

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