千百四十五 スマナサーラ長老の著書を読む(沙門果経、瞑想経典)
平成三十戊戌
五月二十六日(土)「沙門果経」
南伝大蔵経の沙門果経を特集し、専門家はどう云ふ解釈をするのだらうと気になった。たまたま図書館で借りたのがスマナサーラ長老の初期仏教経典解説シリーズ1「沙門果経」だった。このお経は「これも果報だ」が各段落に入る。この果報の内容が、一段階づつ上がることを意味するのではないか。さう思ってスマナサーラ長老の説を読んだが、「これも果報だ」に重点を置かれてゐない。或いはパーリ語の原点ではこれが正しいのか。南伝大蔵経を読む限りは、私の読み方のほうが体系立つやうに思ふ。
次に、超能力の部分をどう解釈されるか。スマナサーラ長老はその一つ前の段落の意からなる身体を超能力とされた。私はこの部分を意からなる身体に代はるとして超能力だとは思はなかった。次の段落は誰もが超能力とする。私は宗教と科学が未分化の時代の正論と解釈する。未分化だから科学に反することがあっても当然だ。スマナサーラ長老は一つが他になったり現れたり消えたりするのを瞑想法とした。そして一つ一つの瞑想にそれぞれ第四禅定まであるとする。また地水火風を操るからだとする。
キリスト教が広まったのは、キリストに超能力があり、その極めつけは磔の後に生き返ったことだが、仏教でも超能力を誇示することはあり得る。我々は釈尊が事実しか話さないと信じるから、これら超能力を実行したのではなく、後世の人が無意識のうちに長年かけて挿入したと考へるのがよい。

五月二十七日(日)「瞑想経典集」第一章八聖道大全
次に初期仏教経典解説シリーズ2「瞑想経典集」を読んだ。これは在日ミャンマー人のお寺に出入りする我々にとって問題作だ。お寺自体はミャンマーで二番目に多いシュエジン派で、特定の瞑想法に特化した訳ではない。しかしシュエディン派のパオ瞑想センターと関係が深く、その一方でマハシー瞑想センターもシュエディン派に属する。
ここまでは私も知ってゐるが、ゴータミー寺院(渋谷区)のスマナサーラ長老がヴィパサーナ瞑想だったことは今回初めて知った。パオ瞑想センターがサマタ瞑想、マハシー瞑想センターがヴィパサーナ瞑想なことも今回初めて知った。
何でそんなことも知らないのかと云はれさうだが、私はサマタ瞑想だらうとヴィパサーナ瞑想だらうと、その日の雰囲気で行ふからまったく気にしない。ミャンマー寺院に出入りする日本人にスマナサーラ長老の評判が悪いのはそれが原因なのかと合点が行った。スマナサーラ長老はこの本でまづ
聖なる八聖道

と題して「聖なる正定」について解説する。聖なる正定のためには聖なる残りの七つが必要だと云ふ。だとすれば仏教は多くの人たちによるこれまでの解釈が大きく変はる。これまで正しい行なひなどを行ふことが重要だった。つまりこれは原因と結果の法則であり、ここに宗教性は少ない。しかし聖なる八聖道だと宗教性が満ちた正しい行なひなどをしなくてはならないからだ。
この章を最後まで読むと、「聖なる正定」には言及しても、聖なる残りの七つは言及してゐないやうに思ふ。この章は勇み足の気がする。

五月二十七日(日)その二「瞑想経典集」第二章瞑想による覚りへの道
この章では、まづ身隋観について説明がある。身隋観とは身の不浄を観察するとともに、一つのことに集中する対象として、経典はまづ身を選んだのではないだらうか。続いて感覚、心への隋観と進み、最後に法隋観で無常と無我を覚るのではないだらうか。これらについてこの本は
無常隋観(隨念)というサマーディ瞑想もあります。たとえば、何でも「無常だ、無常だ」と念じることは、サマーディ瞑想になるのです。(中略)また、身体を不浄であると念ずるサマーディ瞑想もあって、それを不浄観、または不浄隨念と言います。(中略)サマーディ瞑想から修行を始める人は、ヴィパッサナー瞑想に成長しなくてはなりません。

私にはこの辺りが判らない。私は最初、曹洞宗から始めたため、信徒は心の禅定のため止観をすればよいとする意見だ。ここが大乗仏教と上座部仏教の違ひだとする意見もあるが、天台大師に摩訶止観の著述があるやうにここは大乗と上座部の分岐点ではない。(完)

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