千百三十三 1.「奉祝天皇陛下御即位三十年 昭和の日をお祝いする集い」、2.陸上自衛隊第一音楽隊の演奏を聴いて
平成三十戊戌
四月二十九日(日)昭和の日
昨年に引き続き昭和の日の式典に参列した。今、昨年の分を読むと、まだ連合と民進党への不満が残っていた時機だった。その直後に安倍が横柄な態度(1.前川さん批判、2.頭に来たから獣医学部を全国展開と発言)を取ったため、連合、民進党(現、国民党)とはよりを取り戻すとともに、安倍とは全面対決に至った。そのやうな中で、今年も昭和の日を迎へた。今年は連合も「7つの絆」を掲げ、変化が見られる。
一日を終へて一番の感想は、陸上自衛隊第一音楽隊のすばらしさだ。すばらしさとは音楽技術だけではない。選曲、歌唱、司会者、指揮者と隊員の観客への反応、ユーモア。これら総合得点のすばらしさだ。
陸上自衛隊第一音楽隊とは逆に、総合得点が極めて低い音楽集団を二か月前に観た。北朝鮮の音楽団だ。金正恩のそっくりさんが現れたとき、プロの芸術集団ならにこやかに対応しなくてはいけない。ところが一人を除いて残りは緊張、怒り、見ぬふりのどれかだった。
私が陸上自衛隊第一音楽隊の演奏を聴くのは二回目で、一回目を聴いた直後に私は石原莞爾への評価を逆転させた。それまで私は石原莞爾を批判する側だった。そのことを含めて、本日の式典記録を紹介したい。

四月二十九日(日)その二小室圭さんの自宅前に
会場に行く前に、まづ小室圭さんの自宅前に行った。その理由は先日、綱島周波数変換変電所に行ったついでに小室圭さんのマンション前まで行かうとした。ところが道を間違へて環状線に出て、戻ったら街道に出て、両方の途中の急坂及び階段を上っても見当たらない。見晴らしのよい公園を見つけたのが唯一の収穫で、そのあともあちこち歩いて行き止まりだったするうちに再度、環状線に出てこの日は失敗に終った。
そこで今回は、予めよく調べて(前回もよく調べた。すいぶんずさんだ)小室さん宅に向かった。途中の神社に眞子さまと小室さんの御婚約を祝す横断幕(写真)があり、私は感激した。その理由は横断幕にも感激したが、その神社は式典に協賛する団体だった。協賛する神社は全国に十四(宮司名代表役員名を含む、それ以外に宮城県神社庁、神道政治連盟東京都本部、神社本庁の三団体)もある。全国多数の神社のなかで、これは偶然過ぎる。十四のなかには前に参拝した湊川神社の名もある。
個人を含めて全部で107人(団体)。その中には稲田朋美事務所がある。といふことで今後は稲田さんへの批判は避けるとともに、その余力を安倍に集中することにした。
そしてその足で式典会場の明治神宮会館に向かった。式典終了後、家に帰りインターネットで陸上自衛隊音楽隊を調べると、前回聴いたのは第一音楽隊ではなく中央音楽隊かも知れない。更に驚いたことに方面音楽隊もある。だとすれば第一音楽隊への評価は不変だが、陸上自衛隊全体への評価は即断できない。

四月三十日(月)第一部奉祝式典
第一部「奉祝式典」は、陸上自衛隊第一音楽隊の伴奏による国歌斉唱、宣言朗読。主催者挨拶でいつも同じ話なのでと断って中学のとき英語の先生に云はれたpresent(現在)は過去からの贈り物(present)の話をした。当ホームページも丁度過去ニヒリズム批判を開始したばかりで、意見が一致した。
来賓あいさつに来る予定の参議院議員は欠席理由不明。安倍側なので参加を止めたのかも知れない。代はりに衆議院議員で麻生派の井上信治さんが挨拶された。もう一人の来賓は公務で欠席され、メッセージが代読された。この方は欠席理由が明らかなので問題ない。
元民社党委員長の塚本三郎さんに引き続き、大原康男さんが来賓として挨拶された。十一月二十三日は文化の日ではなく農業に関係する名称にすべき。現状だと三百六十四日は非文化の日か。新穀感謝の日で構はない、これで山の日海の日と合はせて農林水産の基幹産業が揃ふ。このやうな話をされた。農林水産を基幹産業と呼ぶのはよいことだ。工業とサービス業は地球温暖化と引き換へなのだから。
このあと御製朗詠、聖寿万歳で、式典は滞りなく終了した。

四月三十日(月)その二第二部記念講演
第二部記念講演は、前半良かったのに後半変な方向に行ってしまった。講演者の肩書は評論家だがインターネットで調べると、政治団体事務局、政治月刊誌編集長を経て、平成九(1997)年から日本会議国会議員懇談会専任研究員。これだと一般の国民と話が合はない。
まづ前半は
小田村寅二郎たちは《東条内閣がこの『大東亜戦争』をどこで終結させようとしているのか、(以下略)》《その結果は、案じた通り東条内閣の周辺には、"戦争終結の目標策定に関する機関"がまったく用意されていないことが判明した》

このことを指摘した小田村寅二郎たちは、憲兵隊により弾圧され刑務所に入れられた。
ストックホルム駐在陸軍武官の小野寺信はロンドンの亡命ポーランド参謀本部から、ヤルタ会談でソ連がドイツ降伏3カ月後に対日参戦する密約を交わした情報を入手。昭和20年2月中旬ごろ、参謀本部あてに緊急電で伝えるが、中枢で抹殺され、昭和天皇だけでなく、重臣や鈴木首相にも報告されなかった。(産経2014.8.5)

ここまでは講演に賛成だ。ところがこのあと、アメリカ上層部は
「過激な和平派」(対ソ連携派)対「穏健な和平派」(対ソ警戒派)の対立

アメリカに2グループあるとも進言したが、握りつぶされた、アメリカも高官はソ連のスパイだった、と口頭で説明があった。更に、東条は本当に愛国者だったが情報を持たなかった、とも説明があったが、これは変だ。小田村寅二郎たちは正論を述べたのに弾圧された。国民を弾圧して愛国者と云へるか。ここで私は、この講演に不信感を持った。
配布資料はこのあと広田元首相がソ連のマリク駐日大使と極秘会談を持ち、最初は友好的だったがその後は音沙汰がなく、病気と称して出て来ない、とあるが講演では、昭和天皇様だけは、ソ連と交渉してもよいが、多方面の交渉も、と述べられたことを話した。このあと資料は、米国の最高機密文書として、日本は皇室の維持だけを条件にソ連と和平工作など産経新聞の一年離れた二つの記事を載せる。口頭では、外務省や軍の情報を昭和天皇様は受け取ってゐたため、ソ連に降伏せずアメリカに降伏できた、と話した。

日本は米英と戦争中、ソ連とは中立だったから、まづソ連に和平を依頼するのは当然だ。次にソ連は日本が満州に大部隊を展開し、ソ連が兵力をヨーロッパ戦線に移動させたら攻め込むことにしてゐたため、ドイツから大きな被害を受けた。ソ連内部の対日感情はどうだったかを調べるべきだった。これらを考察することなく、ソ連ではなくアメリカに降伏してよかったと安直な結果論を言ってはいけない。
アメリカが対日政策を寛大にしたのは朝鮮戦争が始まってからだ。スターリンの粛清が判ったのは戦後のことだ。もしフルシチョフの改革が成功してゐれば、日本はアメリカではなくソ連に降伏すればよかった、となったかも知れない。現在まで続く先進国(地球を滅ぼす行為が先に進む国)の豊かさは地球滅亡と引き換へだ。
唯一アメリカに降伏してよかった理由がある。アメリカは国内に攻め込まれなかったから、英仏のやうに広大な植民地を経済的、軍事的に放棄しなければならないくらい混乱した訳ではない。だから上からの視線で寛大にもなれるし、豊かな生活のおこぼれが日本にも波及した。しかしアメリカが豊かなのは先住民と野生生物の土地を奪ったからだ。喜んではいけない。そもそも講演者はアメリカに降伏したほうがよかった理由に、このことを挙げてゐない。

このあと講演は極めて悪くなったが、それは私のメモ書きによると
明治の民は、明治天皇様が楽しいとお歌を詠まれるやう仕へた。昭和の民は昭和天皇様に楽しくないとお歌を詠むやうにしてしまった。今の陛下に喜んでもらへるやう国民は努めてゐるか。
皇太子さまや雅子さまのことなど、あれこれ云って保守だと云ふ人がゐるが、国民としてどうなのか。皇室がどうだこうだではなく、国民が務めを果たすべきだ。

私と講演者の一番の相違は、私は江戸時代の天皇を理想とするのに対して、講演者は昭和二十年以前の天皇を理想とする。江戸時代の天皇とは江戸時代に京都市民が「天子さん」とさん付けで呼べた天皇だ。さすがにさん付けは失礼だから、私は天皇様とお呼びするが、天皇陛下とは呼ばない。陛下では西洋の国王陛下になってしまふ。
昭和天皇様が楽しくないと詠まれたのは、天災或いは人災(どちらかは当時の新聞を調べないと判らない)が続いたためと拝察する。だから「災い多き今の世を思へば」とある。(完)

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