千九十五 1.明治維新は忌むべきものだ、2.島津久光と西郷隆盛の評価やり直し
平成三十戊戌
二月二十二日(木)
プレジデントオンラインに、加来耕三さんが次の文章を書いた。
最近、薩長が政権を取らずに、もう少しましなやり方で明治維新が行われたら、日本はもっと豊かな国になった、あるいは軍国主義に行かなかったという議論が出ています。でも、それは結果論にすぎません。

私は加来さんの主張に反対なので、その理由を説明したい。明治維新は、神仏習合と云ふ日本が長年を掛けて築き上げた良俗を一瞬のうちに破壊してしまった。日本が軍国主義に行ったのは結果論ではない。為るべくして為った。
富岡八幡の前宮司による宮司殺害事件は、多くの国民を戦慄させた。そして次に、前宮司は働かずに多額のカネを毎年受け取ってゐたことが判り、多くの国民の怒りを買った。
ほとんどの神社は食べて行けない。一部の神社は莫大な収入がある。莫大な収入がある神社の新しい宮司を神社本庁に押し付けられ、そのため神社本庁を離脱した。そのやうな事件があちこちの有名な神社で起きた。富岡八幡もそのうちの一社だった。
醜聞が続発する理由は、神仏分離にある。日本が軍国主義になった理由も神仏分離にある。

二月二十四日(土)
ここで、仏教が正しくて、神道が間違ってゐると云ってゐるのではない。神仏習合で長く続いたものを破壊すれば、平衡状態になるまでに長い年月を要する。
天皇様の立ち位置も同じで、権威はあっても権力は持たないお立場が長く続いたのに、それを西洋(当時は、イギリス、ドイツ、オランダ、ベルギーなど国王のゐる国は多かった)の真似をして、軍服を着た国王にしてしまった。
当時の西洋にはフランス、アメリカのやうに国王のゐない国もあるから、西洋の猿真似をすれば天皇に反対する人も出てくるし、当時の薩長幕府(軍事力で政権を担ふ場合は幕府と呼んだほうが似合ふ)の中には、天皇様の権威を利用して反対党を押さへつける連中が多かった。
更にキリスト教の真似をして、天照大神を一神教の神にしようとした。軍国主義は、結果論ではなく為るべくして為った。

二月二十五日(日)
今から28年前の大河ドラマは「翔ぶが如く」だった。西郷隆盛を西田敏行が演じたことは完全に忘れてゐた。西田と云へば今から41年前の大河ドラマ「花神」での山県狂介があまりに印象的だったからだ。
「翔ぶが如く」で記憶にあるのは二人だけで、一人は島津斉彬を加山雄三、もう一人は島津久光を高橋英樹が演じた。高橋英樹と云へば超一流の俳優だが、その高橋が霞んで見えるほど島津斉彬役の加山雄三は美男子だった。
あのときの印象が私の頭に今でも残り、島津斉彬は佐幕の善人、島津久光は幕府を倒した悪人だと思ってしまふ。しかし実情は違ふやうだ。島津斉彬は西洋かぶれの過激派、島津久光は佐幕で保守主義者。これが正しいらしい。
西郷隆盛が島流しにあったのは軍事命令に従はなかったためで、島津久光に地五郎(田舎者)と言ったことは無関係らしい。短気な殿様だったらその場で切り捨て、良くても後日切腹だが、久光は隆盛を不問に付した。尤も地五郎と言ったのは直接本人にではないと云ふ説もある。
いづれにせよ西郷隆盛は島津斉彬の薫陶を受けた無法者で、江戸で放火事件を起こして鳥羽伏見の戦ひを誘発した。この当時の西郷は決して善人ではなかった。

右翼と左翼を分けるものとして前に、右翼は西郷隆盛に心服する、と云ふ説を読んだことがあった。読んだ瞬間に私はこの説を間違ひだと断定したが、その理由は判らなかった。今思ふと、左翼も右翼も明治政府に反発する勢力で未分化だった。だから反乱を起こした西郷隆盛に心服し、後に左翼はアナーキストやロシア革命の影響を受けるやうになって分化したことに気付いた。だとすれば右翼の源流を西郷隆盛とする説は間違ってはゐない。
過激派の西郷隆盛が保守派になったのは、岩倉使節団が海外に行ったためだ。短期間西洋に行くと、多くが西洋かぶれになる。或る程度以上の人は暫くして西洋かぶれの間違ひに気付くが、それ以下の人たちは気付かない。その結果、過激派の西郷までが保守派に見えてしまった。
そして岩倉使節団の西洋かぶれの人たちが、日本を第二次世界大戦の敗戦にまで持って行った。かう考へれば、討幕派自体が日本を敗戦に持って行ったことは結果論だとしても、間違ひではない。(完)

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