千七十二 五十年ぶりに判った曲名(アイレンベルク作曲「森の水車」)と有線放送
平成二十九丁酉年
十二月二十九日(金)
会社の入居するビルのホールにピアノがある。自動演奏機能があり、午後になると稼働する。先日のスターバックス音楽会では店の前に移動し演奏されたほか、毎月の音楽会でも活用される。半月ほど前には、一階に行った同僚がピアノを調律してゐると云ふので一階まで見に行ったことがある。チューナー(ピッチを表示する)を使ってゐた。

昨日一階に行ったところ、五十年前に祖父母の家の有線放送で聞いたBGMの曲を演奏してゐた。自動演奏装置の表示板を見ると、アイレンベルク作曲「森の水車」であった。

十二月三十一日(日)
信州東筑摩郡にあった祖父母の家が有線放送に加入したのは、私が小学校五年ころ、つまり昭和四十(1965)年頃のことだった。02634-3-09xx(同じ番号が使はれてゐるといけないので一部を伏せた)を掛けて、交換手が出たら51回線の16番と云ふと接続してくれた。後に02630xと掛けると交換手が出て、このころ47回線のxx(これは忘れた)と云ふと通話ができた。この当時02634は松本の市外局番で、後に0263となった。
有線放送は、ダイヤル式電話機のダイヤル部分がスピーカーで、受話器を取り回線と番号を云ふと通話ができた。朝一番に「森の水車」とともに農事メモなどを放送した。2時間くらいの通話の時間と、30分くらいの休憩の時間があり、通話は原則として通話の時間に行った。
朝の農事メモと、昼に繰り返される通話休憩の時間の放送、夕方の子供向け放送はそれぞれ別のBGMが流れた。今回、朝の放送の題名が50年ぶりに判り感激した。

一月三日(水)
昔は家庭への電話敷設が間に合はず、共同電話、秘話装置付共同電話があり、電話帳の説明文を読むと電電公社は普通の回線より共同電話を推奨してゐた。共同電話を大規模にしたものが農村電話とビル電話だった(昭和45年辺りの逓信総合博物館の説明)。
農村電話を農協(一般農協と有線放送農協)が運営し、放送機能を付加したものが有線放送だった。祖父母の家では昭和四十六(1971)年ころ一般電話にも加入し、電電公社の電話機と、有線放送の電話機が並べて置いてあった。この頃から有線放送は下火になった。
有線放送については気になったので十五年ほど前にインターネットで調べると、長野県内では二十近い有線放送があり、しかもインターネットが使へるものも多い。今でも状況は変はらないと思ふ。

一月四日(木)
有線放送のほかに、もう一つ気になる曲がある。昭和四十六(1971)年に、東京駅から「新都橋(有明終点)」まで都バスに乗ると、終点の手前で十秒ほどの曲を流した。方向幕は「新都橋(有明終点)」で、今の有明一丁目を右折したところが有明終点だったと思ふ。夏の間は民間会社がプールを営業した。
他の路線では流さずこの路線(或いはこの営業所)だけだった。それから二十一年を経過して、会津若松から西若松まで会津鉄道の車両に乗ったときに、この曲が放送で流れた。二十年ぶりに聴いたので感激したが、それから二十五年を経過しても曲名は判らない。(完)

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