千三十八 1.内村鑑三「僧X上人を論ず」、2.曽我量深「上行化現の僧X」
平成二十九丁酉年
十月二十二日(日)
丸山照雄編「近代僧X論」と云ふ書籍がある。昭和五十六年(1981)に出版された。七人の僧X論を掲載してある。この中に内村鑑三「僧X上人を論ず」があるので、これを考察したい。僧Xが十七歳のときに
祈願を虚空蔵菩薩に籠めてその解疑を求めんとする時、一日、憂悶措くあたわず、御堂の階段を下らんとするに際し、胸膈気せまりて、多量の生血を吐きてその場に絶倒するに至り、同僚所化の介抱に依りて復活するに至りしとの一時は、余輩が彼について疑わんと欲するもあたわざるところなり。

内村はマルチン・ルターが
宗教的疑問は彼の心思を圧し、彼、その解明を望んで得ず、一日、憂悶、その極に達し、彼の宿房内に絶倒し、ついに同僚の助け起こすところとなれり。東西二例の相符合する(以下略)

とする。内村はモハメットも同じ、クロムウェルが
夜中しばしば医師を呼び寄せて、鬱憂症の治療を乞いしがごとき(以下略)

と論じる。内村は僧Xをルター等と同等に扱ふから、公正である。一歩深く読むとこれらの人士は精神病ととれ、内村はそこまで云はないが、これは真実であらう。宗祖、宗教指導者は、死後に周囲の者たちが絶対化する。これが宗教の欠点と云へる。今の時代にあっては、止観(瞑想)の各方法の考案者としなければ科学の追及に耐へられない。
僧Xの解脱は彼の十九歳の時にありき(ルターは二十二歳、サボナローラは十九歳)。されどもその発表は、なお十数年の後にありき。

私は歳の類似は意味を為さないと考へるが、内村が僧Xをルターと同一視する姿勢は尊く、ここに引用した。僧Xは名越で布教ののち
鶴ケ岡の経蔵に入り、独学独考して彼の心思を養えり。この時にあたりて。摂理は彼に一人の貴重なる共働者を供せり。(中略)日照と称し(以下略)

内村は日照(日昭?)を過度に持ち上げ
世が僧Xを称して日照を思わざるは、(中略)あたかもドイツ宗教改革事業において、ルター現われてメランヒトン隠るるがごとし。

は浜門流(日昭の弟子たち)の資料を読んだためか。内村の名言として
貧居は宗教家の義務にあらず。されども真実なる宗教家は貧居を選ぶものなり。

がある。僧Xの最終判定として
彼の宗教は中途にしてやみぬ。(中略)僧Xの遠望は、まづ日本を教化し、しかる後、朝鮮、シナに弘通してむ、ついに釈迦の本土なるインドに及ぼさんとするにありき。しかして、(中略)日本人少数(比較的)の宗教として終わんぬ。

しかし結論として
十三世紀の日本人として、余輩は彼に非常の敬慕の念を表す。(中略)彼のごとき人物のわが国史に存するを感謝す。

とある。

十月二十二日(日)その二
丸山照雄編「近代僧X論」には曽我量深「上行化現の僧X」もあるので、これを考察したい。第一章とも云ふべき「現代思潮と四箇格言」は明治三十七年(1904)に執筆され
今や国家万能主義、倫理的宗教を唱うる者、国内に充つ。(中略)国家万能主義は亡国の主義なり、倫理万能主義は国賊の主義なり。この両者はとうてい一致すべからず、もしこの二つを一致せしめんとせば、(中略)似非愛国者となる。

明治年間にはこのやうな主張ができた。その一方で現在はGHQの洗脳が効きすぎて、亡国や国賊は死語となった。私が一見、国家主義を語るのはバランスを考へてのことだ。
第二章とも云ふべき「華厳、般若と法華」では
法華が如来の偉大さを示さんがために、久遠実成をもってしたるに対して、華厳は(中略)無辺の法界をもってしたり。それ寿命の久遠をもってするは、(中略)世尊は依然僧俗の人間と伍して、人間以上の霊格となる能わず。しかるに華厳における如来は、誠に人間以上なり。

これは判らない。少なくとも天台大師の主張とは異なる。第一章では題目とX経、迹門と本門、序分と正宗分と流通分について論じ、真宗の僧侶がずいぶん僧Xに詳しいと感嘆したが、第二章は急転した。私自身はX経と華厳経のどちらが優れてゐても構はない。僧Xの伝統に従ふかどうかの違ひだ。
このあと第三章とも云ふべき「『X経』の最大疑問、地涌の菩薩」、第四章「佐渡時代の僧Xと身延時代の僧X」と続く。最初読んだときはこれらも紹介しようと思ったが、割愛することにした。

十月二十七日(金)
曽我量深「上行化現の僧X」に追記をすると「『X経』の最大疑問、地涌の菩薩」に
僧Xの上行本化の自覚はけっしてその慢心より来たりしにあらずして(以下略)

に続いて
さらに百尺竿頭一歩を進めて、僧Xは彼自らをもって本仏とし教主世尊をもって迹仏とせり。

がある。僧X本仏論は富士門流X寺派の日寛以降、或いは福重照平以降だから、曽我量深はどこからこの論を得たのか気になった。この章の先頭で諸法実相抄を引用し
されば釈迦多宝の二仏と云うも用の仏なり、『妙法蓮華経』こそ本仏にてはおわし候え、(中略)凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば釈迦仏は我等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、返って仏に三徳を被らせ奉るは凡夫なり。

ここから出て来るのは凡夫が本仏であり、僧X本仏ではない。僧Xは清僧だから凡夫ではない。それより今回私にも反省点があった。「法華宗X宗すべて」対「富士門流X寺派の日寛以降」との違ひは、僧Xを久遠実成の上行菩薩とするか、久遠実成の釈迦仏とするかの違ひだったのに、私は史実の釈迦仏と久遠実成の釈迦仏のどちらが正しいかの違ひとしてずっと考へてきた。
尤もX宗は本迹一致派で史実の釈迦仏を尊重し、近年になって久遠実成の釈迦仏を云ふやうになった。実は僧Xが久遠実成の上行菩薩なのかどうかも、古くは富木常忍の僧Xへの質問がある。その理由は諸法実相抄に続き
僧X末法に生まれて上行菩薩の弘め給うべきところの妙法を先立て粗弘め(以下略)

とあるから、富木常忍の質問も無理はない。(完)

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