壱千六(その一) 新宿住友ビル訪問記
平成二十九丁酉年
七月十日(月)
先週の土曜は、新宿住友ビルに蟹瀬誠一さんの講演を聴きに行った。午後二時からだったが一時間半ほど早く着いたので、平和祈念展示資料館を見学した。一階に降りたあとエスカレータで二階まで行き、ここはビルの外側が工事中でATMが数台と郵便配達ロッカーみたいなものがあるのみだった。ここは袋小路なので一旦一階に降りて三階の診療所街に行った。ここは三井グループの診療所が一か所と、一般の診療所が一か所。野村ビルと同じで寂れた階だった。
このあと会場の四十七階に行ったものの三十分ほど時間がある。五十二階から順番に四十八階まで見た。土曜の午後で休業の時間帯(土日は夕方から営業がほとんど)とは云へ、ここでも寂れた印象を受けた。五十一階の無料展望ロビーが残念なことに、今年三月で廃止になった。
更に一階から五十二階まで行き、レストラン街を一階づつ階段で降りながら見て回り四十七階に入った。
七月十一日(火)
インターネットで調べると、二階の工事中の部分にはバスターミナルがあった。一階にはウィラーバスの待合所、地下にはトイレがあった。バスタ新宿ができてこれらが移転した。高層ビルは容積率の関係で周囲に広場がある。屋外広場に屋根を付けて屋内繁華街にするらしい。だから地下道からビルに入る道が閉鎖されてゐた。う回路の表示はあるものの、炎天下を歩くのは不満だ。
高層階用のエレベータにも、1階の上にもう一つボタンがあり、しかし使用しない。三階の診療階とも考へられるが、食堂階があったのかも知れない。
七月十二日(水)
平和祈念展示資料館には、一回或いは二回行ったことがある。前回も思ったのだが平和祈念展示資料館の目的は何か。かつての米ソ冷戦時代なら、反ソの展示をすることは日本のためになったと自民党政権は考へ、それは冷戦終結後の今となっては理に叶ったことだった。しかしこの展示だと、単なる拝西洋反日になってしまふ。
抑留の悲惨さの資料を残すことは貴重だ。しかし米ソ冷戦後の展示を目的のないまま継続すると、拝西洋反日活動になってしまふ。西洋帝国主義が第一次、第二次の世界大戦を引き起こした。このことを明示しなくてはいけない。この資料館は総務省の予算だが、総務省は冷戦終結後に何をやってきたのか。
七月十四日(金)
住友ビルは三角形の構造だ。正しくは三つの頂点を削った六角形の構造を持つ。頂点を削った部分には厨房があり、これはレストラン階に特有のものだ。
三角形の内側に立ち対岸を見ると、昭和五十年代はこれが斬新の構造だったのだと、感慨深いものがある。それだけバブルとプラザ合意が日本社会を破壊したと云ふことだ。
内側の廊下が古く感じるのは、単に改修前が理由かも知れない。バスターミナルは無くなり、広場に屋根を付けると同時に、改修も為されるに違ひない。(完)
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